大阪と京都にあるカウンセリング機関(臨床心理士)/女性ライフサイクル研究所フェリアン。講演・研修、研究・執筆活動なども行っています。

人の感覚・知覚は不思議である。たとえば、物理的には存在しているけれども見えない、ということが実際にある。このことは、脊髄動物としてのヒトの眼の構造や脳のメカニズムの観点から、理解できることがある。「盲点」ということばは、うっかりしていてついつい見落としているようなこと、という意味で比喩的に用いられることがままある。しかし、そもそもは、視神経と接続する網膜上のある一点では、像がむすばれてもそのものが見えない、という、生体のしくみにより説明される現象である。以下の解説を読んでみてほしい。

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眼にはいった光刺激は、いったん網膜上の軸索を通って脳に送られるが、すべての神経筋細胞からの軸索は網膜内の一点に集まり、束になって脳に向かう。つまり、網膜に穴をあけてそこから脳の方向に向かって配線されている。当然、その穴の部分には、視細胞がなく光を感じることができない。大きさにして約1.5ミリの光を感じることができない領域が、盲点である。

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同時に、視刺激を受け取り処理する視覚野を含む脳は、おそるべき精巧な高次機能をもっていて、次のような言い方もできる。奥行き、色、形、運動、場所など視覚世界を理解するために、脳はさまざまな箇所でその得意分野に応じた場所で分業を行っている。こうした分業体制を取り入れることによって、脳の一部分がダメージを受けても、全体としての機能がストップしないという大きなメリットがあるのだ、と。ヒトの身体のメカニズムってすごいんだなあと、あらためて素朴に感動するわけである。

以上は、岡市・鈴木(2014)によるが、視覚や脳にかかわるこうした知識をえながら、脊椎動物としてのヒトの身体のメカニズムの精巧なありように驚嘆しつつ、同時に、社会のなかで日常を生きる人としての私のリアルな「みえ」について、思いをめぐらせずにはいられない。

いま「見えている」と認識していることが、私がいま知覚している世界のすべてであるわけだが、その一方で、いま見えていると思っているこの世界に、ほかの「みえ」が存在しないだろか、と。

もっとも、超常現象のようなことを言っているわけではない。さっぱりわからないと思っていたことに対してハタと気づきをえる瞬間があったり、いろんなことを経験するなかで、それまでそうだと思っていたことの意味が、ある日突然に変わったりすることがあるのではないだろうか、と問うているのである。もちろん、その「瞬間」であるとか「ある日突然に」ということは、その人の個人史とつながっていてこそだろう。人は、時間のなかで熟する理解をなしうる存在であるのではないか、ということである。

わかっていた、理解していたと思っていたことでも、時間がたち、立場がかわったり観点をかえてみたときに、みえてくることが実際にある。人は、それまで、きっとそうだ思っていたことに、新たなみえや意味を付与し、世界観を更新したりつくりだすことのできる存在なのである。自分で、きっとそうであるに違いないと思い込んでいるようなことを、それまでとは異なる眼でみようとすること。それにともなって拓かれるであろう、新たな世界と展望。自分がいま見えていると思っていること、理解しているに違いないと考えていること、果たしてそれがすべてですか? こう語りかけながら、これからまた新たにみえてくることがたくさんありそうだと、ほくそ笑んだ日であった。

<参考文献>

岡市 廣成・鈴木 直人 (2014). 心理学概論[第2版] ナカニシヤ出版

(2016年10月)

 

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