組織案内

学校内の体罰と子ども/窪田容子

女性ライフサイクル研究』第8号(1998)掲載

1. はじめに

私の中学時代、体罰は当たり前のように存在した。それから年月を経て、社会の体罰に対する認識は随分変わったと思っていた。時々新聞紙上で学校での体罰が取り上げられていたが、それは少数の時代錯誤的な教師による特異な事件だと思っていた。スクールカウンセラーとして、中学校に入るようになって、子ども達が事もなげに教師による体罰を語るのには驚いた。私が中学生だった80年代始めから、15年以上の月日を経て、社会の体罰に対する意識は随分と変わったはずだ。だが学校の中では、月日は流れなかったのか。いや、確かに竹刀を持ち歩く教師の姿は見かけないし、公然と皆の目の前での体罰はなされていない。だがその分、陰でなされているのだと聞いた。あれ、これはどこかで聞いたことのある言葉だと思った。そうだ、いじめと同じだ。いじめが陰湿になったと言われて久しい。教師や大人の目に見えにくくなったとも言われる。教師や大人の前では友だち同士ふざけあっているかのように装って、その裏では酷いいじめがなされている。体罰も、公然とはなされなくなり、周りからは見えにくくなったが、陰では相変わらずなされていたのだ。そのやり方を子ども達が学んだのではないだろうか。子どもは大人の鏡であると言われるが、体罰が地下に潜ったのと、いじめが地下に潜ったのは軌を一にしているのではないだろうか。ある保護者はこう訴えた。体罰を校長や教育委員会に訴えたくても、先生からの仕返しが怖くてできないのだと。これもまた、いじめと一緒ではないか。

これは私が関わった学校だけの、特殊な話なのだろうか。埼玉県の教職員組合の高校教員へのアンケート調査によると、55%が自分の職場で体罰が頻繁にあると答えており、全く無いと答えたのはわずかに8.4%にすぎなかったという。そして、3.7%が毎日のようにあると答えている。だが、職員会議で取り上げられたことがあると答えたのはわずか6.5%、1年間で県教委に報告された体罰は10件だけなのである。体罰が日常化していながら、うやむやに内部で処理されているのが現実であると言う(97. 9. 5毎日新聞)。体罰は私が知らなかっただけで、まだまだかなり多いのだ。いや、体罰のない学校の方が少ないと言えるのかもしれない。

今回、体罰について考えるに当たって、3人の方から貴重なお話を聞かせて頂いた。Aさんは50年代末から60年代にかけてを大阪市内で中学生として過ごし、70年代初めから現在まで大阪府内の中学校で教師をされている方である。Bさんは60年代半ばから末にかけてを阪神間で中学生として過ごし、70年代後半に同じ中学に教育実習に行き、90年代前半子どもが同じ中学に通い、その保護者として学校と関わったという方である。Cさんは80年代の半ばを大阪市内で中学生として過ごしたが、その学校は校内暴力の最盛期であった。そこで、まずお話を聞かせて頂いた3人の方の体験と、80年代に体罰を受けた側である私自身の体験、スクールカウンセラーとして見聞きした現在の体罰と子ども達の姿を記述したい。いずれも大阪近郊の都市部の学校であり、環境的には比較的似通った地域であるため、年代の流れと共に変化した、体罰、そして子ども達の姿が浮かび上がってくればと思っている。その上で、体罰が子どもに与える弊害について考察したい。

2. 年代の流れと、体罰そして子ども達の姿

1)50年代末から60年代の学校で

Aさんは、戦後のベビーブームの世代である。Aさんの通った50年代末から60年代初めの中学校は、1クラス50人、1学年24クラス、という超大規模校だった。それゆえ先生は小さい存在で、いてもいなくても分からないという感じであった。校則や遅刻指導もうるさかったが、生徒の数が多すぎたので、検査などには手が回らなかった。先生はすぐ生徒をどついた。子どもの方も先生にすぐ手を出した。そのうち学校の敷地の隅に交番が出来た。新採用の先生と言えば、大柄な男の先生が多かった。力で生徒を押さえつけないといけないという感覚が、教育委員会の方にもあったのだろう。体罰は良くないと言う感覚は、教師にも保護者にも、そして生徒にもなかった。学校で問題を起こしたり先生に食ってかかったりすると、親にも殴られた。ある意味で教師と保護者の信頼関係はあったのだろう。教師も保護者も一枚岩となって、体罰を容認し子どもを殴っているという風潮だった。

Bさんは60年代半ばから末にかけてを、中学生として過ごした。1クラス40人強で1学年13クラスであった。このくらいの学校規模になると教師の管理も行き届くのだろう。校則は厳しかった。男子は丸刈り、女子も髪の長さが決まっていた。服装等の検査もあったし、校則に従うのが当たり前で、違反する子はほとんどいなかった。先生は生徒をどついたが、Aさんと同じく、どつくぐらいいいやんかというのが周りの風潮であった。

(2)70年代の学校で

Aさんは70年代の初めに中学校の教師となったが、70年代前半は子どもたちがのびのびしていたと感じている。校則もうるさくなかったし、校則のことで生徒を注意したこともなかった。1970年前後というのは大学・高校紛争の頃である。教師の中でも体罰を問題視して、止めていこうという雰囲気が生まれてきていた。Bさんは自分の中学時代と同じような体罰をした先生が、70年代前半には問題視されたという話を聞いている。

だがAさんによると、70年代半ばより、再び子ども達への締め付けが厳しくなった。おそらく高校紛争が管理主義と力によって制圧されていったことと関係があるだろう。高校紛争に対する教師の恐怖感、そしてそれが中学校に波及しないように、教師が先手を打って、生徒管理と体罰を強めたのであろう。 そしてそれに対する生徒の不信感と反発。70年代半ばにBさんが教育実習生として再び母校を訪れた時、子どもが授業中教室に入らなかったり、私語で授業が成立しないという状況であった。そして先生が生徒を恐れている感じで、先生達もとまどっている様子を見ている。

そんな中で、また体罰教師が台頭してきたのだとAさんはいう。一部の教師は体罰には批判的だった。だが、体罰教師が体罰を武器に生徒管理を強めると、一時的に子ども達はおとなしくなり、学校は平穏になり、いったんは成功したかのように見える。そうすると体罰教師が評価され、体罰に批判的な教師の口が封じられてしまう。体罰教師は勢いづいて、さらに体罰による生徒支配を強める。保護者も学校が荒れているよりはいいと、体罰教師を支持した。そして、70年代末から80年代前半にかけての教師の体罰による生徒支配が全盛の時期へと突入する。

(3)80年代の学校で

私は80年代前半を中学生として過ごした。70年代末から80年代の中学校では教師による体罰が公然と行われ、校内暴力が全盛の時代であった。

私は大阪のベッドタウンの公立中学校で3年間を過ごした。近隣の市の中学では、授業中に生徒が勝手に立ち歩いて授業が成立しなかったり、教師への暴力や、物を壊したりというような、いわゆる荒れている学校も多かった。その中で私の過ごした中学校は、そんなに荒れておらず、授業も成立していたし、暴力や器物破損もあるにはあったが、少なかった。そして、公立中学であるにもかかわらず、他中学からは数人しか入学しない偏差値の高い高校へ、30数人も進学した。

何故か。教師が徹底的に子どもを管理し、力で抑えていたからだ。始業時間が近づくと男性の体育教師が校舎の前に現れ、竹の棒を手に高く掲げて立つ。チャイムが鳴った時に学校に足を踏み入れてなければ、生徒は次々その棒で叩かれるのだ。男性教師のほとんどが竹刀を持って、授業に来た。まず忘れ物をすればケツバン、宿題していなければケツバン、何かと言えばケツバンである。みなさんは、ケツバンという言葉をご存知だろうか。先頃、少し上の世代の人たちと話していて、ケツバンという言葉が通じないのに私の方が驚いた。ケツバンとは竹刀でお尻を叩かれることである。それがあまりに当たり前に行われていたから、ケツバンという言葉が私には普通の名称であるかのように思えていた。

その時、世代ということを意識した。私たちの世代以降、体罰が公然とは行われなくなったのは知っていた。だが、私たちの前の世代でもそれほど激しい体罰が公然となされていなかった時があったことにはこれまで気づいていなかった。もちろん戦時中など、もっとひどかった時もあろう。ただ、私も激しい体罰が公然と行われそれを受けてきた世代であることを、そしてその影響が私の中にも何らかの形で残っているだろうことを意識した。このことが体罰について考えようと思ったきっかけでもある。

80年代の中学校での私の経験に、もう少しお付き合い頂きたい。とにかく管理はきつかった。週に一回、学年集会での頭髪、服装検査。そして、抜き打ちでの持ち物検査。前髪は眉毛にかかってはいけない、後ろ髪は襟の下についてはいけない、ポニーテールや色ゴムは禁止。靴下は白で折り返してはいてはいけない、靴は白の紐靴で1,980円程度の安い物でなければだめ。スカートの長さ、ズボンの幅……事細かに決まっていた。そう言えばシャープペンシルも使用できなかった。そして、頭髪、服装検査はクラスの生活委員がチェックする。学年集会が終わり、教室に帰るときには、生徒達は先生と先生の立っている間を2列に並んで帰る。その問先生が更に子どもを一人一人チェックして、違反の子を見つけたら列より引っぱり出して個別に指導するのだ。太っている子がいて、そのためにズボンの幅も広いのに、いつも引っぱり出されてチェックされているのを、かわいそうに思ったことを覚えている。

私も体罰を受けた。そのどれをとっても自分が悪かったとは思わない(もちろん、自分が悪かったとしても体罰を受ける理由はない)。一度は、クラスの子が早弁(昼食の時間になる前に弁当を食べること)をしていたときである。それを知った担任の女教師が怒り、見ていたものは立てと言った。教室で食べていたのだからほとんどの者が見ており立った。私も立った。すると、担任が一人一人の頬を、ビンタし始めたのだ。それも思いっきりの力で。ビンタされて、一瞬目の前が暗くなり、ちかちかと星が飛んだ。漫画でよくある、頭をぶつけたときなどに星が飛んでるのは、本当にそうなるのだなーということを知った、私の最初で最後の体験である。その時は担任にたいして、怒りよりも軽蔑を感じていた。早弁(授業中ではなく、休み時間に食べてたのだ)が悪いとは思っていなかったし、叩かれたからと言って悪いことをしたとも、これからそういう場面で相手に注意しようとも、先生に言いつけようとも思わない。ただ先生の感情のままに叩いたのだと思った。感情的に怒りをぶつけたことに対して、私は軽蔑した。

全校集会の場では、生徒がひどく殴られている場面を目にした。殴って蹴って、倒れた生徒が起きあがろうとすると、また殴り倒し、蹴り倒すのである。それが全校集会の場で、みんなの見ている場でなされるのである。そしてそれを止めようとする先生は誰もいなかった。ヤクザみたいだなと思った。恐怖を感じた。

私の中学時代は部活に明け暮れていた。小学校の頃から水泳が好きで、得意だった。中学では水泳部に入った。水泳部は、校内の運動系のクラブの中でも一番厳しいと言われていた。シーズンの夏になると、休日は朝から夕方まで泳ぎ、一日10,000m以上泳いだ。25mプールを200往復以上である。夏休みはお盆の2日ほどで、シーズン中は学校の試験前1週間の部活が休みになるはずの日も、特別の許可を得て練習があった。

家に帰ると寝るだけだった。疲れて部活からの帰り道に歩きながら眠りそうになる子もいた。私も一度、練習後のミーティングの最中に倒れかけて、顧問に車で家まで送ってもらったことがある。クラブ活動が生徒管理の手段の一つであり、クラブで子どものエネルギーを使い果たしておけば、校内暴力は起こらないという教師の思惑もそこにあったということを最近になって知った。校内暴力どころか、私には他に何をするエネルギーも残ってなかったなあと思う。小学校まで本が大好きだったが、中学校の3年間はほとんど本も読んでない。シーズンの夏は、ものを考える時間すらなかったような気がする。とにかく家に帰ったら疲れ果てていて、寝るだけだった。

そして体罰があった。自分のベストタイムプラス何秒という制限タイムが設定され、練習中にそのタイムを切れなかったら、切れなかった数だけケツバンである。100m 5本1セットで、もし5本切れなければ5発連続でケツバンである。それが6セットあって、下手をすれば、十数回でも叩かれる。薄い競泳用の水着を着ているだけだし、何回も叩かれた上に叩かれると痛い。お尻に横線の青あざが出来て、洋式便座に不用意に座ったら痛くて飛び上がりそうになる。だが、その時は顧問に腹も立てなかったし、軽蔑もしていなかった。感情的に怒ることは軽蔑していたが、そのケツバンは顧問の感情的な怒りの結果ではなかったし、ルールみたいに感じていた。体罰が当たり前という環境の中で、私も体罰そのものに疑問を持つことが出来なかったのだろう。

だが、すでに数千m近くも泳いだ後で十分疲れているのに、ケツバンをされたからといって制限タイムが切れるわけでもない。それに、自分自身もっと早く泳げるようになりたいと思っているのだから、ケツバンされなくても頑張ろうと思っている。叩かれなくても頑張ろうと思っているし、叩かれたって頑張札ないものは頑張れないのだ。今思えば馬車馬みたいだなと思う。

一方で、熱心な先生であったことも確かである。秋口に泳ぐのが寒くなってくると、先生がポケットマネーで鉄のポールと大きなビニールシートを買ってきて、みんなで袋に砂を詰めそれを重しにして、25mプール全面を覆う手作りの大きなテントを作りその中で泳いだ。風雨が避けられるし、水温が冷えていくペースも遅くなった。風雨で破れる度に、ガムテープで補修した。それでも水温が下がってくると、焚き火をたいてくれ、そこで体を温めては水に戻った。おかげで、温水プール完備の私立中学には負けるが、公立中学の中ではかなり強い方で、私もリレーでだがいくつも賞状を手にすることが出来た。引退前の最後の大会での表彰式の帰りには、ご馳走してくれたこともある。生徒思いの熱心な先生であったことは確かだろう。そして私にプラスとなったことも多い。体力もついたし、少々のことは頑張れるという自信もついた。集中力もあるほうだと思うが、それもこの時期に培われたと思う。優勝すれば、嬉しかった。

だが、叩く必要はなかった。その頃丁度、戸塚ヨットスクールにおける生徒の死により、体罰が社会問題として注目された。とたんに、ケツバンが減った。これには軽蔑した。体罰を止めたことを軽蔑したわけではない。これまでの体罰に対して、軽蔑したのだ。なんだ、それなら始めからするなよと、別にポリシーもなくやってただけなら、社会が騒げばすぐ止めるようなことなら始めからするなよという気持ちだった。

子どもは、自分が体罰を受けて痛い目に遭ったとき、それが何か自分のためにされている、それが何か自分にとってプラスになっているのだと思いたいものだろう。ただ意味もなく叩かれているのではやりきれないから。私もおそらく、どこかで自分にとってプラスであると思いたかったのではないだろうか。そう思うことで、体罰される自分を納得させようとしていたのではないか。だから、それまで顧問による体罰に腹を立てることもなかったのだろう。だが社会が騒いだことで体罰が減ったとき、今までのように自分が叩かれてきたことの理由づけをし、合理化することが出来なくなってしまった。無意味に叩かれていたことに否応なく気づかされた。もちろん、誤った思いこみを続けるよりは、真実を知る方がずっといい。体罰の無意味さに気づかなければ、無意識のうちに体罰を受け継いでしまったことだろうから。

熱心で生徒思いの先生ではあったが、子どもが生身の心と体をもった一個の人間であるという認識に欠けていた。子どもの人権への意識が低かった。それを先生個人の責にするつもりはない。社会が体罰を許容していた。私の通った中学は、このように体罰と管理が厳しかったが、荒れていないこと、偏差値の高い高校への進学率がいいことなどの理由から、この中学に入るために引っ越ししてくる人もいたようだ。家の広告には、○○中学校の校区であるということが、いつも大きな文字で書かれていた。この中学の校区内であることが家に付加価値を与えていたのだ。

ところで、80年代は校内暴力が激しく、それを抑えるために教師の体罰が行われていたと言われることがあるが、それはむしろ逆のことが多いではないだろうか。つまり体罰が先で、生徒の校内暴力が後なのではないか。生徒の校内暴力が激化し、それを抑えるために教師の体罰が増えたのではなく、体罰(それは教師による校内暴力と呼んだほうが適切かもしれない)が激化し、それに抗うための生徒による校内暴力が吹き荒れたのではなかったか。しかしそれが、却って生徒の校内暴力を誘発した。暴力は暴力を呼ぶ。暴力は学習される。私の過ごした中学では正にそうだった。私の中学在学中は、生徒による校内暴力はさほどなかったが、教師による校内暴力が激しかった。そして私が卒業して数年の後、その中学は生徒の校内暴力で荒れた。

中学時代は校内暴力の最盛期だったというCさんに話を聞かせて頂いた。Cさんは80年代半ばを、大阪市内で中学生として過ごした。もともとやや荒れている学校であったが、1年2年の間はさほどではなかった。3年になって、生徒の校内暴力が激しくなった。一部の生徒が窓ガラスを、パンパンパンパンと割っていく。だから学校のほとんどのガラスは割れているし、ドアも壊れている。授業中は反抗的な生徒に限らず、ほとんどの生徒が私語をしていてざわついている。先生は割れたガラスの後片づけに追われていて、他のことに注意を向けている余裕はない。服装等の検査は全くない。先生はそこまで手が回らないのだ。生徒が何をしても、見て見ぬ振りのことも多く、注意も余りしない。昼休みに学校を抜け出すのも自由であった。異常な体罰をする教師が一部いたが、教師が竹刀を持ち歩いているということはないし、体罰は多くはない。体罰は学校が荒れてくると減っていく。なぜなら体罰は、相手が自分より力が弱く、抵抗できないことを見越してなされているからだ。それゆえ生徒が力をつけて抵抗を始めると、教師は体罰ができなくなる。

Cさんの中学校の印象は、先生の手が回らないので、比較的自由に過ごせてよかったというものだ。私の中学時代は、生徒管理の目が行き届き、なんとも窮屈で息苦しかったという印象だが、多人数学級の学校や荒れていた学校では先生の手が回らない分、まだ子ども達は自由だったようだ。基本的には少人数学級の利点は大きいと思うが、人数が減らせば済むというものではないだろう。教師が生徒を管理するという体質が変わらなければ、先生の目が行き届く分、子ども達がさらに管理されてしまう危険性がある。

(4)校内暴力後の学校で

では校内暴力はどのようにして収まったのか。Aさんに尋ねてみた。校内暴力の始まる学年には、必ず荒れさせる要素を持った教師、つまり力で子どもを支配しようとする体罰教師が何人かいる。校内暴力は、1、2年と教師の暴力に耐えてきて、体の大きくなった3年生から始まる。子どもの不信感は体罰教師だけに向けられるのでなく、教師集団に丸ごと向けられ、一度荒れてしまうと子ども達は集団で迫ってくるので、教師は手がつけられなくなる。それを見ている、その年の2年生ももう手がつけられない。では、どうするか。新しく入った1年生から、取り組む。子どもを力で押さえつけるには止めようという合意の元で、以下のように大きく3つの柱のある取り組みがなされる。1つは集団作り、班作りである。校外学習や遠足を班行動とし、行き先なども班単位で自主的に子どもが決められるようにする。子ども達が主体性を取り戻し、仲間意識も高まっていく。2つ目はクラブ活動を活性化させることである。子ども達は自分のしたいことに一生懸命になることが出来る。担任とは信頼関係を持てなかった子どもが、クラブの顧問と信頼関係をつなげるということもある。3つ目は保護者との連携を強めることである。荒れた学校を教師だけでは収めていけないので、教師が一段降りて保護者に近づき、協力を求める。授業参観にいつでも来てもらい、学校の実態を見てもらったり、毎朝校門に来てもらって挨拶運動を行う。懇談会を学校だけでなく、教師が地域に出向き、地域で開くこともある。学校が保護者に歩み寄ると、保護者も歩み寄り、そうすると教師と保護者との距離が近づき、信頼関係が生まれてくる。こういった取り組みが功を奏して、子ども達の目が生き生きと輝いてくる。そして学校は落ち着きを取り戻す。

しかし、一方で子どもを支配するという体質が変わらなければ、このやり方が子ども達を縛り、押さえつける方向でなされることもある。そのやり方は、まず手がつけられなくなった3年生2年生と、まだ指導の入る1年生とを分断する。文化祭などの行事や集会なども学年ごとに行い、上級生の影響が1年生に及ばないようにする。そして、1年生には怖がられるような教師を補強し、しつけや規律を守らしていく。集団作り班作りは、助け合いという都合のいい名の元に巧妙にカモフラージュされて、その本質は江戸時代でいう5人組である。規則、風紀を子ども達同士で互いにチェックさせ、違反者が出れば連帯責任をとらせて罰する。例えば1人校則違反や教師に反抗した生徒がいれば、クラス全員をグランド何周も走らせるなどの罰を与える。中学生というのは特に友だち関係に敏感な時期であるし、友だちに迷惑を掛けるようなことは極度に恐れている。連帯責任を取らされては、手も足も出ないだろう。またクラブ活動の強化も、生徒管理の手段となる。クラブでエネルギーを使い果たしておけば、校内暴力は起こらないというのは、この発想であろう。体罰教師がクラブの子を手先のように使い、教師の目がクラスで届かない時の見張り役にさせたり、クラブの子を体罰の見せしめに使うことさえあるという。また、保護者との連携も、いい方向ばかりとは限らない。学校が荒れている時は、往々にして保護者の不信感も高まっているが、学校の意向を保護者に伝え、学校に都合のいい保護者をPTAの会長に選び、保護者の批判を抑えていくという方法が取られることもある。子どもに体罰をし、厳しく管理して欲しいという保護者も実際にはいる。保護者が上手に使われ、巻き込まれていく。その他、班ノートや家庭学習を多くして、子どもの自由な時間を縛ったり、成績で脅して子どもを縛るという方法が取られることもある。そうやって、校内暴力が収まっていくことがある。校内暴力後、三無主義という言葉が生まれたが、親、教師、そして子供同士縛られ、学校外での自由な時間までも縛られた子ども達は、無感動、無感情、無関心にならざるを得なかったのではないか。それが子ども達にとって、息苦しい中学校時代を生きる術だったのではないかという気さえする。

Bさんの子どもは、90年代の初めにBさんと同じ中学に入学した。先生が以前はこの学校も荒れていたけど、今は収まりましたといきいきした様子で話した。先生のいきいきとした様子と対照的な、子どもたちの元気のない姿が印象的だったそうだ。その学校は、子どもを縛る方向で、校内暴力を収めた学校であったのではないだろうか。

(5)今、学校で

スクールカウンセラーとして、十数年ぶりに中学校と接点を持つようになった。校則は、そんなには厳しいという感じはない。校則違反の検査も、先生によって考え方が違い、学年集会でしている学年としない学年とがある。体罰も、直接見たことはない。ただ、私の職業柄もあるかと思うが、子ども達はあまり元気そうには見えず、学校がおもしろくないという訴えは多い。

再び中学校に通うようになって、最初は本当に驚くことばかりだった。子ども達の最も多い訴えはいじめであるが、女の子が通りすがりに何もしていないのに男の子に殴られる、だから一人では廊下も安心して通ることが出来ないと訴える。友だちの女の子に叩かれて、痛いといったら、痛くない痛くないと笑うだけで止めてくれないのだと訴える子もいる。そして私の目の前でも、些細な意見の食い違いから、すぐ殴り合いが始まる。子ども達は言葉で自分の気持ちを表現することが出来なくて、手を出すしかないようなのだ。

子ども達は自分の感情を表現する言葉を持たない。「なんかムカツク」「イライラする」「おもんない」と言うだけで、その奥にある自分の気持ちが自分でも分からない。感情を表現する言葉を持たないのは、自分自身の気持ちが自分でも分からないからであろう。自分の感情は、他者に受けとめてもらえることで安心して表現できるし、表現することによって明確化していく。おそらくありのままの感情を受けとめてもらった経験が少ないのだろう。自分がどうしたいかさえ、分からない子ども達もいる。

また、自分より弱い子をわざと挑発し、手を出させて、やり返すというパターンの子もいる。そして、周りにいじめられているという話を切々と訴えていた子が、今度はいじめる側にまわって、更に弱い子がその子にいじめられていると訴えてくる。弱い方へ弱い方へといじめと暴力が、流れている。

では、いじめと暴力の一番上に立っているのは誰なのか。いじめや暴力を振るう子に聞いてみると、親に暴力を振るわれている子が多い。そして先生に叩かれたことも、事もなげに語る。子ども達は別に体罰を問題だとは思っておらず、当然あることとして受けとめている。体罰によって鼓膜が破れた生徒に対しても、同情はなく、悪いことをしたのだから当たり前という受け止めであり、むしろその事件によって処分を受けた先生に対して同情すると言う。子ども達は体罰に疑問を抱いていない。してはいけないことをすれば、体罰を受けるのは当然だという考えが、無意識のうちに子ども達の内に浸透してしまっていて、体罰を受けた理由の当不当を考えることをあっても、体罰そのものに対して疑問を抱くことはない。それは、体罰が当たり前という環境にあって、そのことに疑問を持つことが出来なかった、過去の自分の姿とも重なる。

その一方で、先生が怖くて学校に行けないと訴える子にも出会った。体罰教師の夢にうなされる子や、中学校を卒業しても3ヶ月体罰教師の夢が続いたと言う子もいた。「体罰は学校教育法で禁止されてるんだよ、法律違反なんだよ」と言うと、「えっそうなんですか、全然知らなかった……」と絶句する子もいた。

若い女性の先生方は、生徒が授業を聞いてくれないので困っている。怖い先生の授業では大人しくしていて、自分の授業では全然言うことを聞いてくれないのだと言う。教師に対する不信感や恨みは、体罰をした教師にだけにはとどまらないし、力での抑圧は、必ず弱いところへとはけ口を求める。しわ寄せは、体罰を振るったり、大声で怒鳴らない先生方のところへもいっている。

3. 体罰の弊害

ここで、改めて体罰の弊害について考えてみたい。

まず、体罰を受けやすいと考えられる、反抗的態度や暴力的行為をとったり、髪を染めたりピアスをしたりして校則に違反する子どもは、何らかの悩みを抱えている子どもであることが多い。もちろん今の学校の現状にあって、おとなしく校則や教師の言う通りの行動をとり、学校に自らを適応させることが、健康であるとも言えない。学校や教師、大人に異を唱えるべく、意図的に校則に違反するという、しっかりとした子どももいる。しかし、学校の枠にはまらない子どもの行動が、子どものSOSのサインであることが多いのも事実であろう。これらの子どものサインを体罰によって、抑えてしまうことは、ことの本質に触れることを避け、表面上何も問題が無いかのように取り繕わせて、大人達が安心するということでしかない。サインを受けとめてもらえなかった子ども達、サインを出すことさえ許されない子ども達は、どこに助けを求めればいいのだろう。

私が中学生だった頃、「服装の乱れは心の乱れ」というスローガンが流行した。もし仮に「服装の乱れが心の乱れ」であるならば、その心にこそ注目して心が抱える問題を解消していくことこそが目されねばならないのに、教師達は服装を整えさせることにやっきになっていたと思う。服装さえ整えさせれば、心の乱れが収まるかのように。それは逆であろう。私の学校への通勤途上に、「つぶそう、非行の芽」と書かれた大きな看板がある。その前を通るたび、なんだか恐ろしいなあと思う。つぶさないでね、子ども達の心は……と心のなかでつぶやいている。

また、学校で集団生活を行う時に子ども達が身につけていなくてはならないことの一つに、自らの欲求が他者や現実とぶつかり、かなえられないことが出てきた時、自らの内に葛藤を抱えつつ、自分の意思で欲求を我慢するという、自己をコントロールする力がある。だが、体罰を受ける子どもは、自ら葛藤を抱え自分で欲求を我慢する前に叩かれてしまうので、自己コントロールを学ぶことが出来ない。叩かれて痛いから止めるのであって、自らの意思で止めるわけではない。また、何か行為をしてしまった後であれば、体罰により自分の行為の意味を考え反省する機会を奪われてしまう。そして、結局大人が見ていなければ、叩かれなければやってしまう子どもになってしまう。それは、自己コントロールではなく、他者コントロールである。結局、他者のコントロールが届かないところでは、同じ事を繰り返すであろう。

ある先生がこんな話をしてくれた。自分は体罰しないと決めていた。非行に傾いていく中学生の男の子がいた。どんどん荒れていくようだった。その子を指導していたとき、その子がこう言った。「先生、殴ってくれ。もう、自分で自分を止められないから、殴ってくれ。」と。そう言われても、自分はその子を殴らなかった。だけど、それで本当に良かったのかと今でも気になっている、と。子どもが荒れる方へと向かって行くとき、教師は子どもを止める壁になる必要があるとは先生方からよく聞くことだ。時には体罰も必要ではないかと言われることもある。壁になることは時には必要であろう。だが、壁という物には本来手足は付いてない。壁は手足を出す必要はない。

その中学生はおそらく、殴られて育ってきたのではないだろうか。そのため、自己コントロールを育てられずにきたのではなかろうか。自分を止められないから殴ってくれとの子どもの言葉は、正に自己コントロールの欠如を意味する。彼に必要なことは、殴られることによる更なる他者コントロールの上積みではない。自己コントロールこそ身につけねばならないものであろう。

もう一つの問題点は、彼は殴られることが愛情だと勘違いしていることだ。殴る親の多くは子どもに、お前のために殴るのだ、お前のためを思うからこそ殴るのだ、と言って殴る。そう言われて殴られ続けた子どもは、殴られることが、愛情の形だと勘違いし始める。この生徒はかなりこの先生に信頼を置いていたと思う。この生徒は心のなかで、こう言ってたのではないか。「先生僕のことを思ってくれるのなら、どうして殴って墜ちていく僕を止めてくれないのか。」と。

しかし、ここで先生が殴っていたらどうだっただろう。将来彼が、同じような状況に陥ったとき、自らの行動をコントロールすることが出来ず、また、誰かが止めてくれることを期待するだろう。しかし、大人になる.につれ、止めてくれる人、止められる人は徐々に減っていくだろう。行き着く先は法に触れて、警察によって止められることしかないかも知れない。さらに、信頼している先生が自分を殴ったならば、暴力は愛情の形であるという信念を強めていくだろう。それは、彼が愛している人、彼の恋人や妻、子どもを殴ることにつながっていく。

自己コントロールが出来ない子ども達が、自己コントロールを身につけていくために、言葉は重要な役割を果たす。子ども達は、まず自らの心の葛藤を知らなくてはならない。自らの心の葛藤が分からなくては、それをコントロール出来るはずはないからだ。そのためには、自らの心の葛藤を言葉で表現し、それが他者によって受け入れられる経験が必要である。他者に受け入れられる中で、言葉を持たなかった心の葛藤に、言葉を与えていく。行動化という形でしか出口を見いだせなかった心の葛藤を、言葉という通路から少しずつ外に出していく方法を身につけていく。言葉を与えられ、少しずつ外に出せ、受け入れられた心の葛藤は、行動化という形で暴れる必要はない。

一方、体罰は言葉を軽視する。それゆえ、子どもの行動化を助長し、子どもを暴力的にしてしまう。体罰の裏には、言葉で言ったってどうせ伝わらない、体に痛みを与えなければ伝わらないという意識がある。言葉への軽視が、体罰という暴力を生み、暴力によって言葉でのコミュニケーションの意義を学べない子ども達は、さらに言葉を軽視し、それがまた暴力につながる。『体罰の研究』を著した坂本(1995)は、体罰は生徒の言い分を聞いて説得し、教師自身も反省するという、最も基本的な姿勢を教師から奪う。生徒にとっても、くどくど言われるより、1発殴ってくれ、考えるより、殴られる一瞬の痛みの方が楽だという生徒が出現すると指摘する。人間は言葉を操れるようになって、高度な思考を発達させ、文明を発達させてきたのではないか。言葉は、思考を発達させるために、必要不可欠なものではないか。「自分の意見を言うと殴られる。大人の考えを押しつけられる。自分の考えを言う前に手を出されるので考えられない。」と言った中学生がいる。暴力は思考の発達をも阻害する。

この他にも、体罰には子ども達を暴力的にする要素がある。体罰は、相手の方が弱く抵抗出来ないことを前提にしてなされる。それは自分が強い立場にあれば、暴力を振るってもいいということを子ども達に無意識に教える。つまり、自分より弱い立場のものには暴力を振るってもいいということである。 また、力による抑圧は、必ず弱いところへはけ口を求める。私の中学時代、いくつかの運動系のクラブでは、先輩が後輩をはけ口としていた。遥か後ろにでも先輩がいることに気づけば、立ち止まって先輩が通り過ぎるまで待たなければならない。自分が校庭にいて、先輩の姿が3階の校舎の中に見えたとすれば、校庭からでも大声で挨拶しなければならない。先輩が気づくまで何度でもぺこぺことお辞儀しながら挨拶をし続けなくてはならない。気づいても、無視している先輩。でも挨拶を途中で止めると後で、いびられるのだ。なんとも異様な光景だった。子ども達のいじめなども、抑圧された感情が弱いところへとはけ口を求めるという、正にこの構図ではないだろうか。弱い立場にいる子どものなかには、動物虐待に向かう子さえいる。

その他、体罰による恐怖感や、屈辱感、抑圧感が子どもの尊厳を貶め、自発性をそぎ、無力感を植え付け、大人や社会への不信感を強めるなど、子どもの心にとって大きなダメージであることは言うまでもない。

4. おわりに

50年代末から現在までの、体罰と子ども達の姿について概観してきた。少数の方のお話と自らの体験によるもので、これを全ての学校に起こっている出来事だと一般化するつもりはない。今回はいずれも、大阪近辺の都市部での学校に絞ったため、田舎の方では多少違う雰囲気だったのではないかと思っている。

だが、年代を追って見ていくことで、浮かび上がってきたことがある。子どもが変わってきた変わってきたと、私の中学時代も、そして今も言われているが、それは大人によって変わらされてきたのではないかということだ。体罰も校則も少なかった頃は子ども達ものんびりとしていた。校内暴力も、体罰に抗うために生み出された。そして相互監視と連帯責任によって、三無主義が生み出された。体罰が陰でなされるようになり、いじめが陰湿化した。

もちろん全てが学校の影響であると言うつもりはない。学校をあまりに大きなものと捉えることは却って危険である場合もある。社会の風潮、文化、ライフスタイルの変化等、様々な要因が子どもに影響を及ぼしているであろう。だが、子ども達が平日かなりの時間を学校で過ごしているのも事実である。学校の及ぼしている、子どもへの影響についてもっと目を向ける必要があるのではないだろうか。

子どもが変わってきたと言われるのは今も昔も変わらないが、最近はその後すぐに「親も変わってきたんだよな」と先生方が言われるのをしばしば耳にする。昔は、親は教師に対して権威を感じていたし、一定の敬意を持って接していた。教師を信頼してくれていたし、教師の言うことは親も素直に受け入れていた。今はそうではなくなっている。教師の言うことを受け入れてはくれないし、始めから不信感を持たれているような気がする。だからとてもやりにくいのだという。

その不信感を植え付けたのは、親の中学時代の教師かもしれないと私は思う。近年、「新しい荒れ」や「学級崩壊」という現象が、小中学校において広がっている。教師を対象としたある調査によると、子どもが「担任の注意や叱責に反抗する」という経験をした教師が小学校において47%あったという。中学校においては数値は出ていないが更に上回る数値だったという(98. 6. 7朝日新聞)。原因には様々なことが考えられよう。だが、その一つに、親の教師に対する不信感が、子どもに伝わり、子どもが教師に対して不信感を持っているということが考えられるのではないか。70年代末から80年代前半に、教師の激しい体罰を受け、教師に不信感を抱いた世代が今、小中学生の親世代となりつつあるからだ。子どもにとって、親の価値観の影響力は大きい。親の教師に対する不信感を敏感に感じ取り、それを取り込み、教師に向けているということは考え得ることである。

親が教師に不信感を持ってしまったがために、子どもが教師に不信感を持ってしまうということは、学校で多くの時間を過ごし、教師から教えてもらう存在である子どもにとって、本来望ましいことではないだろう。一方、教師から受けた暴力を肯定してしまっている親の場合は、そのことで教師に対して不信感は抱かないだろうが、親という強者の立場に立ったとき、子どもに暴力を振るう側になる可能性が高い。その弊害を考えると、暴力を受けたために教師に不信感を抱いている親の方が、次世代に暴力を引き継がない可能性が高いという意味で、まだ子どもにとって救いがあるのではないだろうか。誰しも過去を美しく彩りたいものだから、教師から受けた暴力を懐かしむ人がいることも理解出来ないことではない。また、暴力を介する以外の方法で、人との親密な関係を結べずにきた大人は、暴力を肯定してしまうかもしれない。けれど、たとえ痛みが伴ったとしても、自分の遭った暴力をどこかで否定しなければ、暴力はまた次世代へと受け継がれてしまう。

また、教師の暴力を直接受けていない人であっても、教師による生き埋めの体罰、体罰による子どものショック死などがマスコミを通じて耳に入ってくる。体罰という言葉はことの本質をあいまいにする。それは教師による暴力、もしくは虐待と呼ぶ方が適切かもしれない。校門圧死事件、頻発しているスクールセクハラ……。おそらく私たちの耳に入ってくるのは氷山の一角に過ぎないのだろう。校則を破っただけで殺された子ども、数分遅刻しただけで殺された子どもの無念さを思うと、親ならば、教師から子どもを守らなければならないとの思いさえする。私の子どもが学校に通い始める時を想像し、私が親として始めから教師を信頼するだろうかと考えた時、とてもそうは出来そうにない。もちろん、スクールカウンセラーの経験から、素晴らしい先生がおられることも知った。だから、始めから不信感を持って接したいとは思わない。信頼できるか否か、白紙の状態から始めようと思う。第一、今は価値観が多様化し、何が真実かも分からない時代である。教師という一個人の意見をそのまま受け容れるということは、今の時代にはそぐわない。親が扱いにくくなったと言われるが、教師が上で、親が下という訳でもないし、親は教師に一方的に教えを請う存在ではない。教師の意見を聴いた上で、自分の意見と合わなければそれを拒絶することも、対等な大人同士の自然な関係ではなかろうかと思う。教師と親が共に学び合う存在でいられたらと思う。

さて、本稿では50年代末から現在までの学校と子ども達の姿を振り返ることにより、体罰が管理主義的教育体制と一体となって進んだことは伺えた。だが、体罰と管理主義的教育体制は、受験制度や詰め込み教育、教育条件の悪さや教師の多忙さ等の労働条件の悪さなどとも深く関わっている。これについては、今回は検討する余裕がなかったので、今後の課題としたい。

そして最後に、付け加えておきたいのは、スクールカウンセラーとして学校に入って、本当に子ども達のことを思い、勉強を続け、試行錯誤を続け、子ども達を理解しようと熱心に取り組んでおられる先生方に何人も出会えたことだ。その先生方と話をする中で、私自身気づかされたことや、学ばせて頂いていることがたくさんある。ここにあらためて感謝の意を表したい。また、貴重なお話を聞かせて頂いた、Aさん、Bさん、Cさんにも心から感謝したい。

【文献】

坂本秀夫 1995 『体罰の研究』 三一書房 服部雄一 1997 「教育とマインド・コントロールの違い」 東京理科大学講義資料 吉村薫 1993 「体罰と子どもの人権を考える」 『女性ライフサイクル研究第3号』女性ライフサイクル研究所

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