エッセイ
ネットでつながることの功罪/前村よう子
教壇に立ち始めて20年目を迎えた今年、高校での担当教科が全て「情報」関係ばかりになった。
「情報」というのは比較的新しい教科である。その名が示すとおり、パソコンを初めとする情報機器の操作方法を学ぶ教科だ。と同時に、この情報化社会での生き方を理解させる教科でもある。例えばそれは、赤ちゃんがこの世に生を受け、育つ過程に似ている。
生まれたての赤ちゃんはそれまでの温かく心地よかった母胎から外の世界に押し出され、戸惑いを覚える。親をはじめとする多くの大人たちに心身を大切に扱われることにより、「ここは温かくて、とっても良いところ」という安心感を得ていく。「情報」も同様で、小中学校の「情報」教育の中で、まず生徒たちはパソコンやタブレットを使った楽しい経験を積んでいく。もちろん家庭内でも、スマホやタブレット、ネットにつながるゲーム機器等によって、多くの生徒たちは既に楽しい経験をたくさん積んでいることだろう。
その後、赤ちゃんが「寝返り」「お座り」「つかまり立ち」「歩く」と成長していく、あるいは「単語」から「文章」へと言葉を獲得していくのと同様に、「情報」においても「Word」や「Excel」「PowerPoint」の入力方法を学び活用できるようになっていく。
しかし、本当の「情報」教育は操作方法を学ぶだけでは終わらない。一番大切だと私が思うのは、これらの情報機器、あるいはこれから登場する最新の情報機器を使って、誰も傷つける事なく、誰からも傷つけられる事のない、簡単に言えば、加害者にも被害者にもならない姿勢である。
例えば、このエッセイをお読みの皆さんは、それぞれのPCやスマホ、タブレット等からこのサイトをご覧になっていることだろう。そしてそれらの機器を使って、様々なSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービスの事。例えばFacebookやmixiなどは有名)やTwitterでの情報発信、受信をされている事だろう。
これらは使いこなせば、とても便利で楽しいものである。当研究所もFacebookに登録しているが、例えば先日来、沖縄での連続講座の講師を津村と森﨑が努めてきた様子が写真付きでアップされていた。これらは当研究所の活動の一端を皆さんに知って頂くために大いに役立ち、また、日々忙しくしているスタッフ同士の情報交換にもなっている。
しかし、使い方を誤れば、誰かを傷つけおとしめる武器にも容易になるのがネット社会の怖さである。ここ数年、バイト先の冷凍庫に入っての写真や食材で遊んでいる写真などがSNSに掲載され、掲載した個人のSNSが炎上するという事件が後を絶たない。サイトの炎上だけでは事は済まない。
掲載者や被写体にされた人々は、ネット社会の中で身ぐるみを剥がされるように、名前・住所・電話番号・顔写真などの個人情報があちこちで公開され、日常生活に支障をきたすことになる。一旦ネット上に流された画像や映像は、消えない。たとえ最初の登録者が自力で削除したとしても、小学生でさえ簡単に複製を作ることができる。そうして作られた複製画像や映像が、全く別のサイトで掲載され続ける。
ネットにさらされた人たちは、仕事も失うし、再就職も難しくなる。学生であれば、停学はまだしも、退学となる可能性もある。また、転学して無事卒業できたとしても、就職は難しくなる。
下地のエッセイにもあるが、昨今の就職活動はエントリーシートで始まる。各企業の人事担当者は、ネットワークを使いこなしている場合が少なくなく、応募者がネット上で過去に加害行為をしているかどうか、簡単にチェックできる。ごくごく普通に検索しただけで、その個人のネットにまつわる全ての事柄が、ワンクリックでチェックできるからだ。本人でさえ忘れたいと思っている過去の画像や映像が、本人の全く知らないサイトで生き続ける。そして過去の加害行為が、現在の自分の首を絞め続ける。これが情報化社会の負の側面の一端である。
多くの大人たちは、この事実を知らない。もちろん多くの子どもたちも知らない。だからこそ、高校での「情報」教育は重要なのだ。(本当は小学校から、これらの事を徹底して教えることが必要だと思うけれど)
この1年間、せっかく「情報科」にどっぷり浸かることでもあるし、私自身も生徒の被害や加害行為を防ぐために、もっと学んでいきたいと考えている。
(2014年6月)