組織案内

トラウマを持つ人へのカウンセリングにおける中立性の問題/窪田容子

女性ライフサイクル研究』第9号(1999)掲載

1 はじめに

私はクライエント中心療法をベースに分析的立場など他の療法を加味した心理療法を大学院で学んできた。しかし、女性クライエントとの面接においては、女性がこの社会において生きていくということはどのようなことなのか、既存の社会に適応できずに生きづらさを感じることを、個人レベルの問題を越えた社会的な視点からとらえる必要があるのではないかと考えるようになった。女性ライフサイクル研究所に所属して、フェミニストセラピィの視点も取り入れ始め、クライエントとの面接においてカウンセラーが見通し及び方向性を持ち、うなずきや質問によって明確化させることでよりよい方向へと強化していくことが大切であり、そこが私のこれからの課題だと教わった。そのことはうなずけることではあるのだが、一方私の中で、治療的中立性との間で齟齬をきたすようになってきた。この中立性がひっかかって、クライエントによりよい方向へ強化していくことにためらいを感じてしまうのだ。

カウンセラーは中立であらねばならない。私の中でこの中立とは、いろいろな価値に対して中立であるということを含んでいる。クライエントが自分の価値観において、人生の道を選び歩んでいく。カウンセラーの価値観において導くのではない。面接場面を利用し、語ること共感されることで、より自分の考えや選択を明確化していき、クライエントは自らの人生を自ら選び取っていくのだ。

クライエントが考え、迷い、選ぶこと、すべてクライエントのものだから、そのすべてを、カウンセラーの個人的価値観をはざまず尊重しなくてはならない。そのすべてを尊重し耳を傾けクライエントの能力を信頼していると、クライエントは自分自身で人生を再体制化していく。

しかし、すべてに価値に対してカウンセラーが中立であることは可能だろうか。自分を傷つけたり、他者を傷つけることにおいてまで中立ではあることはできない。カウンセラー自身に実際に危害を加えることにまで、中立ではいられない。そもそも、カウンセラーはカウンセリングが有効だと思っていることにおいてすでに、一定の価値を提示していると言える。だとすれば、いったい中立性をどのように捉えればよいのだろうか。

さて、被害を受けトラウマ(心的外傷)を抱える人との面接に携わるようになり、中立性の問題を自分自身の中で整理しておく必要をますます強く感じている。なぜなら、周囲の不正な行為によって被害を受け苦しむ人に対して、価値において中立であることはできないからだ。つまり、不正なことを不正なことであると認めないことには、被害を受けた人の苦しみや怒りに本当の共感は寄せられないし、不正がなされた時点で、不正を認めなかった加害者や、不正を認めず行動を起こさなかった傍観者と同じ立場をとることになってしまう。

そこで本稿では、まず、フロイト、ホーナイ、ロジャーズ、ハーマンそしてフェミニストカウンセラーたちが中立性についてどのように捉えているのかを概観したい。また、今回、被害を受けトラウマを持つクライエントへのカウンセリングの経験が豊富な方々に、中立性に関してアンケートをお願いした。これらを通して、中立性について自分なりに整理してみたいと思う。

2 フロイト、ホーナイ、ロジャーズ、ハーマン、フェミニストカウンセラーの中立性に対する考え

①精神分析の父であるフロイト(1912)は、全ての事柄に対して、差別なく平等に漂わせる注意を向けることが必要であるとする。分析家が意識的にある点に注意を集中すると、クライエントの話す事柄からあるものを選び始めてしまい、ある点が特別にはっきり固定される一方で、ほかの点はこれに対応し無視されてしまう。そして、この選択にあたっては分析家の期待や好みに従ってしまう。これこそまさに絶対してはいけないことだと述べている。

②カレン・ホーナイは「フロイトが男性優越の考えに立つのに対して、男性優位を文化的偏見とし、女性の価値を主張し真の自己に生きることを重要視」(近藤章久1990)した分析家であるが、価値判断を排除することを期待したフロイトに対し、それは不自然な事であり、「人間の行動や動機が問題となっているときに、自分自身の価値体系を排除できる人間はいない」(ホーナイ1946)と述べている。また、価値に関して混乱していた患者はある時期そのことに気づき、あらためて興味を持つようになり、分析家は人生の目標を明らかにするのを援助するため、価値に関して議論を行うと述べているが、この議論においては、かなり分析家の価値を提示している。また、「患者を発展過程にある一人の人間とみなして関心を持ち、患者の前進的な動きをすべて歓迎するという意味で」あるがままに受容することが大切であるとも述べている。

③来談者中心療法のロジャーズは、治療者が、クライエントの体験のすべての側面を、そのクライエントの一部として暖かく受容しているという、無条件の肯定的関心を経験していることが、必要であるとする。そして、この無条件とは治療者の価値観と一致すれば受容するということではなく、クライエントをユニークな人生を歩む人として尊重し、クライエントが独自の体験をもつことを喜ぶことが成功する心理療法の条件であるとする。一方で、彼自身も分裂病者との面接をするなかで、受け身的性質の強い受容性から、カウンセラーの感じたことをもう少し積極的に述べるというような変化もあった。

④フェミニズムの視点を持ち、トラウマに関して代表的な著作である『心的外傷と回復』の著わしたハーマンは、「『中立的』とは『治療者は患者の内面の葛藤しあっているもののどれかの肩を持つ事をせず、また患者の生活決定に直接指示もしない』ということ」だと述べる。しかしこれは「技術的中立性の事で、それは道徳的中立性とは同じではない。犠牲者となった人たちを相手に働くということは道徳的には断然一つの立場に立つという事である。治療者は犯罪の証人となるべき使命を授けられた者である。治療者は患者と連帯する立場であるというはっきりした態度決定をしなければならない。」と述べる。

⑤フェミニストセラピィはフェミニスト的価値志向を主張し、フェミニスト的価値にはっきり立つことが、フェミニストセラピィを他のセラピィから区別される。(パトリシア・S・ファウンス,1985)「フェミニストセラピィの焦点のひとつは、自己定義するように女性をエンパワーすることである。女性のニーズ、男性支配文化によって是認されていないニーズがセラピストによって積極的に承認されるにつれて、女性の自己評価は高くなり、より積極的に力を行使することに伴う危険を冒すこともできるようになる。・・・そうすることによって対人的にも個人的にも今より現実的な力をもち、自分自身の人生のコースを管理する能力を高めることが可能となる。「伝統的なセラピィでは、女性を正しい役割に『適応させる』ことによって、この葛藤を解消しようとする。女性の現実は無視され、男女間の権力格差が、伝統的な治療過程と日常生活の両面において強化される。(Schaef,1981)」・・・この葛藤の源泉は女性の要請と社会の要請との間のズレにあるのだが、そのようには認識されず、むしろ女性自身の中にあるのだとして再び女性に差し戻される。このようにして『被害者を責めること』は、実際には外側の葛藤であるものを、いっそう深く女性に内面化させる自体を招く。(エイドリアン・J・スミス,ルース・F・シーゲル,1985)」。また、日本のフェミニストカウンセラーの河野貴代美(1986)も「従来の心理療法においてセラピストは無色透明であるのがよしとされてきたし、あえてどのような主義主張にもコミットしないと宣言する専門家もいる。しかしそのようなことが可能であろうか。それに無色透明たれ、と言うのもひとつの立場である。立場がどうであれ、“ある”立場たれ、というのもひとつの主義主張に他ならない。セラピストがある思想を支持し、それに従った価値観や生活様式を持つことと、それをクライエントに押しつけることは違うはずである。逆にいえば、主義主張が明瞭であればあるほど、それを強要しているかいないかは自覚しやすくなる。あるいは他のセラピストのクライエントに対する感情移入に関しても同じであろう。」と述べている。

このように見ていくと、いずれの理論も、クライエントのあるがままを受容し、クライエント自身が人生を歩いていくことを尊重するという意味では大きな違いはない。その前提の上で、カウンセラーが価値観を持つことをどのように捉えるかということであろう。

実際、全く中立であることなど不可能であるし、どんなカウンセラーであっても何らかの立場に立ってはいる。フロイト自身の理論が、本当に価値判断を全て排除しているのかと言えばそうではないだろう。そして、フェミニストカウンセラーの言うように、社会の問題を問わずに、個人をその社会に適応させることだけを考えるのでは、結局は社会の歪みの中での弱者や被害者を責めることにつながる危険性が大きい。トラウマを持つ人(特に社会的関係において)のカウンセリングにおいても、同じことが言える。ハーマンは、犠牲者となった人たちを相手に働くということは道徳的には断然一つの立場に立つということだと述べている。トラウマを持つ人に対して既存の社会に適応するということだけを考え、歪んだ社会への批判的まなざしを持たなければ、結局被害者の責を問うてしまう危険性が大きい。トラウマもまた社会の歪みと、その中で弱者とさせられたことと関係するため、トラウマを持つ人のカウンセリングにおいて、フェミニストセラピィから学べる点が、多々あるように思われる。

3 中立性に関するアンケート結果と考察

トラウマをもつ人へのカウンセリングの経験が豊富な精神科医、カウンセラーに中立性に関するアンケートを実施した。ハーマン(J,L.Herman 1992)の外傷性逆転移(代理受傷)が中立性に影響を与えるとの指摘もあり、これについてもアンケート項目に入れた。アンケートの方法及び結果については文末に附記した。

(1)最初に、一般的なカウンセリングにおける治療的中立性とは、どのようなものか尋ねた。これについては、面接内でクライエントの語ること、考えること、自己決定、自己選択を尊重するという意味における中立性にしぼった回答と、転移逆転移や治療的距離などなど治療者とクライエントの関係をより強調した回答に分けられた。

(2)一般的なカウンセリング(トラウマを持つ人に限らないという意味)において、明らかにクライエントにとってよくないと思える選択をしようとしているときはどうするかを尋ねた。これについては、何らかの介入を行うという点では一致した回答であったが、その程度においては考えが分かれた。よくないと思える選択という質問はあいまいな表現であったので、個々の回答者が抱いたイメージの程度によって、介入の程度に差が出た面もあると思われる。言葉による介入を行い、考えを深める作業を行うとするよう勧めるもの、やめるよう伝えるもの、セラピストの考えを示唆するが、それに従わなくてもサポートする覚悟であることも伝えるという回答もあった。一方、犯罪以外ではこちらの考えを提示する以上には言わないという考えや、防止のために必要な手段を取らざるを得ないと話すとの回答や、より積極的な介入として精神科医からは、病的状態に基づいてなお固執するときは、医学的な治療を行って、その後再検討するよう提案し、やむを得ないときは医師の裁量権の範囲で阻止する手段を講じるとの回答があった。

(3)ここまでは、トラウマを持つ人に限らない質問であったが、次にトラウマを持つ人への治療において、クライエントを被害者とみることと、治療的中立性との関係をどのように考えているか尋ねた。トラウマを持つ人への治療において、一般的な治療的中立性と、違うかどうか知りたかった。これについては、基本的には一般的な治療と同じという回答が多いが、トラウマを持つ人への治療においてはより踏み込んだケアやより介入的になったり、中立性が薄らぐという回答もあった。この質問項目において、カウンセリング自体が一定の価値観をはらんだ行為であるという意見が2名よりあった。

(4)ハーマンは、犠牲者となった人たち相手に働くということは、道徳的には断然一つの立場に立つことが必要だとしていますが、それについてどのように思うかを尋ねたが、道徳的に断然一つの立場に立つことが必要だということでは基本的に一致した回答を得た。また、今まさに虐待を受けつつある子どもをその状況からどのように救いだすかといった時、心理職であってもその場に介入することが必要であるなど、状況によって、より介入的になることが必要な場合、自分はカウンセラーだから、中立的な立場でなどと言ってすまされない、このようなとき明確に“断然一つの道徳的立場”に立っているとの回答があった。

しかし、クライエントが被害者でもあり、加害者でもあるような場合には、また難しい問題が生じる。母親面接で、母親がかつて虐待を受けトラウマを抱えている人でもあり、子どもを虐待しトラウマを与えている人でもある場合、複雑な思いを起こさせることがあり、“道徳的に断然一つの立場”に立つことは必要なこととは思うが、揺れるのだとうの回答や、『心的外傷と回復』で、ベトナム加害者のPTSDについての治療が述べられているが、犯罪者の多くはPTSDに苦しみ、自首したとあり、これは倫理的に単純でない問題を提供するのだとの回答があった。 また、逆に治療的枠組みを守り、治療関係を維持していくためには、あまりにもこの立場をとることは発展性がないし、回復をおくらせると思うとの回答もあった。

(5)トラウマを持つ人への治療において、通常の治療の枠を超えやすい面があると考えられるので、その経験があるかどうか尋ねた。ほとんどないとの回答が2名。あるとの回答が5名であったが、主に時間の延長と、電話での対応についてであった。

(6)ハーマンは、中立性に影響を与えるものとして、代理受傷(vicarious traumatization)を指摘している。代理受傷のサインであるいくつかの体験があるかどうかを尋ねた(結果は文末資料参照)。また、他に治療的中立性が保てなくなるサインとして感じられていることを尋ねたところ、治療者の体の状態に現れるサインとして疲労や眠気などや、治療者の心理状態に現れるサインとして、無力感、気が重くなる、クライエントのことが日常的に頭にあったり、ネガティブな感情が生じるなどの回答があった。いずれの反応もないと答えた回答者はいなかった。

あるとの回答が多かったのは、<クライエントの行動などに対して、反発、嫌悪、軽蔑、恐怖、憎悪、厄介払いしたいという気持ちが沸く>であった。ハーマンは「患者は治療者の一語一語あるいは一びん一笑を詮索して、予期される敵対行為から自分を守ろうとする。治療者の意図が邪気のないものと信じられないので、患者は治療者の動機と反応とに間違った解釈ばかりを下す。治療者のほうも慣れていないやり方で敵視されるために、この敵視に対して反応してしまいがちである。支配と服従のダイナミックスに引きずりこまれた治療者は虐待関係のいくつかの面を思わず知らずに再演してしまう羽目になりかねない。」と述べているが、こういった経過から、上記のような気持ちが沸くことは多いのであろう。また、その奥には治療者が加害者と同一化をおこすということが関係していることもあろう。「治療者は証人の役割を果たしているうちに被害者と加害者との葛藤の虜になってしまう。被害者の方に同一化するばかりでなく、加害者にも同一化するようになる。・・・加害者との同一化はさまざまな形をとりうる」が、患者の行動に反発や嫌悪を覚えるのという反応もそのひとつの形であるからである。

また、<クライエントと同様の怒り、恐怖、悲しみ、絶望などを感じる>も多かったが、これはクライエントに寄り添い共感するという役割の性質からは、ある程度避けられないことかもしれない。しかしロジャーズの、感情移入的な理解とはクライエントの嫌悪や希望や恐怖を知覚しているが、カウンセラーがカウンセラー自身としてそれらの嫌悪や希望や恐怖を経験することではなく、クライエントの私的な世界をあたかも自分自身のものであるかのように感じとり、しかも“このあたかも・・・・のように”という性質を失わないこと、自分の怒りや恐怖や混乱がその中に巻き込まれないようにすることが必要であるとの言明に、この状況への対処のヒントがあるように思える。

<治療者として力不足だと感じたり、自分への怒りを感じる。(または、自分が熱意が足りないとか、もっと社会に働きかけなくてはと感じる。)>に5名があると回答した。ハーマンも「人間の加害性と残虐性の物語に何度も曝されれば治療者の基本的信頼が揺さぶられることは避けられない。治療者の自分は個人として脆くはかないものだという感じも強まる。」と言う。また、「患者の孤立無援感をわがことのようにエンパシカルにわかち持つようになる。このことによって治療者は自分の知識と専門訓練との価値を過小評価するようになったり、患者の強さと内的資産とが見えなくなることがあるかもしれない。逆転移性孤立無援感の影響によって、治療者はまた精神療法的関係の力への信頼を失うことがあるかもしれない。経験を積んだ治療者にしてなお、外傷患者を前にすると自分の能力不足と孤立無援をにわかに感じることが稀でない。」と述べている。また<社会に働きかけなくては>と感じるのは、トラウマへの理解がまだまだ浸透していない日本の状況にあって、専門家による2次被害も問題となっており、トラウマについての専門家は社会に働きかけていく使命を負っているとも言えるかもしれない。

いずれもないと答えた回答者はいなかったことからも、経験を積んだ治療者であっても、外傷性逆転移は避けられないものと考えられる。

(7)これらの状況を最小限にするために、どんな工夫をしているか、もしくは、どんなことが必要だと思うか尋ねた。この質問の回答ついては大きく以下の5つに分けられる。

①治療枠(治療契約)をきちんと設定しておくこと。

②カウンセラーが、自分を振り返り、転移逆転移を理解し、自身の問題を解決できるような内的な作業を行う。

③他機関との連携や相互スーパービジョンなど援助者側の相互サポート体制。怒りや敵意等々のマイナスの感情を含めて、より自由に感情を解放できる仲間をもつこと。その場合、もちろん秘密保持には十分注意を払う。「一人で回復できる生存者がいないように、一人で外傷に取り組める治療者もいない」というハーマンの言葉が思い出される。

④治療者の心身が疲れた時の具体的な回復法を用意しておくこと。

⑤治療者が仕事とは関係のない快適な世界をもち、気分転換を積極的にはかる。例えば、趣味をもったり、長期休暇の場合は仕事とは関係のない世界の中に身をおいたり、ユーモアを含む家庭生活の中にいること。

4 まとめ

はじめにも述べたとおり、治療的中立性について自分の考えが揺らぎ始めたことがこの原稿に取り組んだそもそもの出発点であった。その時私が考えていた中立性とは、カウンセラーがいろいろな価値において中立であることであった。しかし、一方であらゆる価値に対してカウンセラーが中立であることなど不可能であることも分かっていた。

そこで、今回のアンケートにおいて、まず一般的なカウンセリングにおける治療的中立性と、あいまいな表現であったがクライエントが明らかによくない選択をしようとしているとカウンセラーが思うときどうするかを尋ねた。「よくない」と思うのはカウンセラーの価値判断となるので、カウンセラーの価値観と明らかに相容れないとき、どのようにするのかを知りたかった。ここから、多くのカウンセラーが、クライエントが自由意志で自らの人生を選択していくことを信頼し尊重するが、明らかによくないと思える選択をしようとしているときには、程度の差はあれ、介入を行っていることが分かった。言い換えると、カウンセラーの価値判断によって必要な介入をしているということになる。

このように考え、中立性とは何なのかと改めて自分に問い直すと、以下のように私は感じている。中立である領域と、カウンセラーが一つの価値観に寄って立つ領域との間はつながっていて、中立である領域、ある程度カウンセラーの価値観を持っている領域、絶対的にカウンセラーが一つの価値観に寄って立つ領域というものがそれぞれのカウンセラーの中にあって、個々のカウンセラーが事に応じていずれの領域かを判断して対応しているのではないかということである。その判断においても、カウンセラーの価値観がかなり入ってくるとも言える。

そうであるならば、カウンセラーが状況に無意識的に動かされ、治療上マイナスの判断をし、誤った介入を取ってしまわないためにも、自分が何をどの領域と判断するのかという基準のようなものを意識化しておくことが必要だと感じる。その基準をしっかりと自分の中に意識化した上で、個々の事例に柔軟に対応することが必要だと考える。

では、カウンセラーとしての私はどのような基準をもつのか。

①絶対に私が一つの価値観に寄って立つ領域に入るものとして、生命の危険に関することがある。自殺他殺の危険が現実に迫っている場合には、防止するための介入を行う。身体的虐待、性的虐待についても、私は絶対的に否という価値観に寄って立つ。ここにおいて、何の介入も行わなければ、それは中立であることにはならず、虐待に加担(加害、あるいは傍観者として)する側につくことになるのだと思う。心理的虐待については、それがはっきりと虐待となればやはり否だが、何が心理的虐待かということについては、判断が難しい面がある。同じ出来事でも、状況や関係性、個人の受け取りによって虐待となったりならなかったりするので、状況をよく見極めることがより大切であろう。①の領域は、カウンセラーの倫理とからんでくる領域でもある。上記の事実を知って、かつ適切な介入を行わないことは、逆に倫理的問題が生じさせることにもなると考える。

②ある程度価値観を持っている領域に入るものとしては、生命の危険には至らない自傷行為や援助交際などある。これについては、今はそうするしかない、そうせざるを得ない心理状態を理解しつつも、いずれはそうせずに生きていけることを願っているという意味で、この領域と言えるだろう。犯罪については、生命や虐待に関わるものについては上記の通りだが、それ以外に詐欺や万引き、交通違反まで様々あるが、自己と他者を害する程度によって違ってくるだろうが、多くはこの領域に入ると考える。これについても倫理とからんでくる問題であろう。その他、ある程度価値観を持っている領域に含まれるものとしては、カウンセリングは役に立つと思っていること(唯一、最上の手段ではないし、全ての人にでもなく、時期を選ぶことも必要だが)、心の傷は癒された方がいいと思うこと(すぐに、一度に、全て癒された方がいいとは思っていない)、感情は抑圧するより何らかの手段で表現された方がよいと思うこと、何らかの形で他の人とつながっていることは大切だと思うこと、ジェンダーに縛られず自分らしく生きる方がいいと思うこと、人の中にはたとえ今は弱められていたとしても生きる力、内的な力があると思うこと、そして人生は生きる価値があるものだと思うこと、などなどがある。また、女性や子どもなど社会的弱者に対しては特に、エンパワメントが大切だと思っている。

③上記以外の多くのことが、おおよそ中立である領域に入る。先に生命の危険が現実に迫っている場合には、①の領域だと述べたが、延命か尊厳死かということになれば、私は中立となる。胎児の生命、すなわち中絶をするか否かに関しても中立である。世間では中立ではないことが多いと思われることに、結婚、妊娠出産、離婚、性的志向、乳幼児を持つ母親の就労などがあるが、これらについて私は基本的に中立でいたい。

これは、世間では中立でないことが多いことに対して、カウンセラーがあえて中立の姿勢をとるということである。結局、言い換えれば、中立であるということで、一つの価値観を提示しているとも言える。それでは、中立ではないということかと言えば、私はそうではないと思う。

もし仮に全く歪みのない中立の社会であれば、カウンセラーが無色透明であることで中立たり得るのかもしれないが、現実の社会はそうではない。実際、そんな社会があるはずはないし、現実の社会の中には歪んだ価値観はたくさんあり、それが多くの人を生きづらくさせている。例えば、女性は妊娠出産して当たり前、離婚はしない方が良い、同性愛は正常ではない、乳幼児期は母親は子育てに専念した方が子どもにとってよい・・・等々。

この、中立ではない社会にあって、カウンセラーがそのことを認識し、社会への批判的なまなざしを持たなければ、それはただ歪んだ社会に迎合し適応を求めるだけで、本来の中立ではあり得ないのではないか。中立を自認し自らの価値観を排除しているカウンセラーの中には、既存の社会に適応することをよしとしてしまっている危険性がないだろうか。中立ではない歪んだ社会の価値観についての認識を持ち、それとは違う本来の中立の軸というものをカウンセラーが持っている必要があるのではないか。

フェミニストセラピィは、価値志向であるのだが、それは不公正な社会の価値観を基盤とせず、本来の中立を志向しているとも言える。犠牲者となった人たちに対しても、その理不尽性、不正性をそれと認めることが、中立の基盤を提供することでさえあるのだと思う。ハーマンのいう道徳的に断然一つの立場に立つというのも、結局は断然一つの立場に立つ事で、より中立な基盤を提供するということではないだろうか。それは、女性やトラウマを持つ人に限らず、この社会の歪みによって生きづらくさせられている人たちへのカウンセリングにおいてはとりわけ大切なことだと思う。カウンセラーがある価値観を持っていることが、中立を促進さえするのだと思う。

もちろん、これら全てのことが、個々のケースの事情に大きく左右され、ケースの事情が優先されることは言うまでもない。それゆえ個々のケースの状況把握が大切であり、それに応じて柔軟に対処することが大切である。そして、どの領域に属することがらであろうとも、何よりも、クライエントの語ることに耳を傾け、クライエントが自由意志で自らの人生を選択していくことを信頼し尊重することが大切であるのには違いはない。

トラウマを持つ人の場合は外傷体験の影響で、女性やその他の社会的弱者とされる人たちは社会の歪みによって、自由意志で自らの人生を選択していく力が、弱められたり、発達させられなかったということも多いだろう。何が本来のクライエント自身に一致した考えであり選択であるのか、そして何がトラウマの症状による選択なり社会の歪んだ価値観の影響による選択なのかを見分けることも大切となろう。

しかしここにおいても、もちろんクライエントの自由意志で自らの人生を選択していく力を尊重し信頼することが大切であるし、より介入的になるとしても、強制や説得よりも、起こりうる結果を検討したり、カウンセラーの考えや別の選択肢を提示し、検討することで、最終的には自らの意志で選択し決定することが、結局、外傷体験やこれまでの育ちの中で弱められたり発達させることができなかった、自らの人生を選択していく力を回復(または発達)させることにつながっていくのだ。ハーマン言うように、その後を生きる者自身が自分の回復の主体であり判定者でなくてはならないのだ。

結局カウンセラーも、ある価値判断の尺度を持っていて(社会の不正や歪みに対する認識を持っていることも含まれる)、かつそのことを自覚しており、その上でなおクライエントの自己決定を最大限尊重し柔軟に対応していくことが大切だと考える。そして、そのようにあるために、治療的距離、治療的枠組みが大切なものとなろう。特に、トラウマを持つ人の治療においては、この距離や枠組みを越えやすいところがあるし、外傷性逆転移も中立性に影響を与えるため、サポート体制や自分なりの対処法、回復法を用意しておくことが必要である。

今のところ、私はこのように考えている。しかしこれらは、私がこれから経験を積み、勉強を続ける中で変わっていくものと思うし、変わっていくことを受け入れたいと思う。

回答者の方から「・・・中立性の概念も、all or nothing的傾向からより自由で、揺れ動きつつ、しかし、バランスは取れるという健康な曖昧さの中により多くいられる人であることが基本的前提となる。そのような前提に立って、その時その時の状況の把握と自己点検、この両者への普段の努力にかかっている。」との意見を頂いた。現時点で、一応私なりに中立性を整理したわけであるが、それに縛られずに柔軟に対処していきたいと思う。自分自身の価値観と、それがクライエントに与える影響について検討し、常に自分が今どのように判断し動いているのかを自己点検していきたい。個人だけを見るのではなく、社会の側の問題にも目を向けつつ、何が本来の中立なのかということをしっかりと見据えていきたいと思う。

最後になりましたが、アンケートにご協力いただきました方々に心よりお礼申し上げます。

【文献】

フロイト(1912)「分析医に対する分析治療上の注意」『フロイト著作集9』 小此木啓吾訳人文書院

畠瀬稔(1990)「クライエント中心療法」『臨床心理学大系7』金子書房

ジュディス・L・ハーマン(1992)『心的外傷と回復』 中井久夫訳 みすず書房

河野貴代美(1986)『フェミニストセラピィ』垣内出版

K・ホーナイ(1976)「精神分析とは何か」『ホーナイ全集7』我妻洋他訳誠信書房

近藤章久(1990)ホーナイ『臨床心理学大系16』金子書房

L・B・ローズウォーター,L・E・A・ウォーカー(1985)『フェミニスト心理療法ハンドブック』ヒューマン・リーグ(パトリシア・S・ファウンス1985,Schaef1981,エイドリアン・J・スミス,ルース・F・シーゲル1985も、本文献より引用)

メルヴィン・E・ミラー(1999)「禅と心理療法ー中立性から(関係を通した)空の場所へ」日米仏教心理学会議講義資料

村本詔司(1998)『心理臨床と倫理』朱鷺書房

佐藤紀子(1999)「早崎論文に対するコメント」 佐治守夫・飯長喜一郎編(1983)『ロジャーズクライエント中心療法』有斐閣新書

氏原寛(1995)『カウンセリングはなぜ効くのか』 創元社

資料:アンケートの方法及び結果

1999年7月実施。日本臨床心理士会主催の第1回被害者支援研修会(99.7.11)の場で直接依頼したものと、当研究所とつながりのあるカウンセラーに個別に依頼したものとある。アンケート用紙を手渡しまたは郵送し、記載して返送して頂いた(電話による返答1名あり)。33名に依頼し、8名から回答を得た。回収率は24%。アンケートは質問6と質問7を除いては、自由回答形式とした。自由回答については、主なものを附記する。

質問1:普段どのような立場から面接治療を行っていますか。 精神科医1名、臨床心理士7名。臨床心理士については精神分析的立場(特に外傷論的)との回答が1名、心理力動立場(折衷派を含む)2名、人間学的アプローチ1名、来談者中心主義をベースに分析的立場、アディクションアプローチを加味した折衷派1名、アビュースフォーカスドが1名、不明1名であった。

質問2:先生にとって、一般的なカウンセリングにおける治療的中立性とは、どのようなものですか。 「(治療的中立性とは)クライエントが思うこと、語ること、考えることの自由度を高くするために必要なこと」「クライエントの自己決定、自己選択の力を尊重し、信頼するためにカウンセラーの個人的価値観を一方的に押しつけない態度。カウンセラーがクライエントの代わって、その人生を引き受けることはできないから、そのような態度が必要となるのだと思う」「来談者の求める利益によるサービスを行うことがある意味で中立性であるということ」「転移逆転移をできるだけ自己自身でモニターしつつ、特に同一視による“ひいきのひき倒し”にならぬよう心がけること」「浅くて視野の狭いもの、べったりとした2人だけの世界ではなく、適切な距離があり、問題の深い理解がクライエントにとって、一番耐えやすいレベルで関係を維持していくこと」「治療的中立性とは治療的距離と読み替えることができる・・・距離には2つの側面がある。現実的治療行為としての枠組治療関係と、その枠組みの中で生じる情緒的交流にともなうもの。」「1,治療を強制しないこと(クライエントの自発的治療意欲に基づいて行う、一見自発的に見えてもよく確かめる。当方から勧める場合はよく説明したうえで、最終判断はクライエントにまかせる。)2,初めに治療についての取り決めをし、それには共に服する(セラピストも時間を守るとか)。3,面接室以外で合ったり、偶然に会っても話し込んだりしない。面接室以外で会うときは緊急の必要が認められる特別の場合のみである。また、面接室内にあっても、私は服装の一定性を守るために、一定のうわっぱりを用い、多くはズボンを着用している。香水、指輪もつけない。4,クライエントの話の内容を自分の価値観や、一般的な世間の基準で判断することを慎む。5,むやみにセラピストの私的なことを開陳しない。6,治療以外のことで、セラピストの私的な目的のためにクライエントを利用しない。7,クライエントの親、配偶者、友人、感謝の日と等々から情報を求められた場合は、クライエントの許可を得た上でのみ行う。」

質問3:一般的なカウンセリングにおいて、明らかにクライエントにとってよくないと思える選択をしようとしているときはどうされますか。 「“それについてもう少しお話くださいませんか”など言葉による介入をする。選択について、(同じ決定を改めてするにしても)考えを深める作業をするように勧める。」「やめることを伝え、それについての思いを確認しながら話し合う。」「セラピストの考えを示唆するが、それに従わなくてもサポートする覚悟であることも伝える」「知らないことについてはアドバイスをするし、間違ってると思うということも言う、しかし犯罪以外ではそれ以上には言わない。こちらの考えを提示する、そこ止まり。」「その防止のために必要な手段(クライエントの周囲の人や機関に援助を求めるなど)を取らざるを得ないと話す。」「他のあり得る選択肢やその可能性について検討し、病的状態に基づいてなお固執するときは、医学的な治療を行って、その後再検討するよう提案する。やむを得ないときは医師の裁量権の範囲で阻止する手段を講じる。」「初めに、“治療中はあなたの人生に大きな変化をもたらすような、変更の決定は控えるように”と説明する。私の場合は“そうはいっても人生には決定を迫られる場合も多々生じるから、そのような際はここでまず話し合ってからにしてください”と補足しておく。」

質問4:トラウマを持つ人への治療において、クライエントを被害者とみることと、治療的中立性をどのように考えていますか。トラウマを持つ人への治療において、一般的な治療的中立性と、何か違った考えがあれば、教えてください。 「トラウマを持つ人への治療には治療者が動かされやすい要素がたくさんありますので、ある面では教育的配慮や介入が必要になってくると思われます。」「セラピストの体が反応することが多いように思う。(涙など)それをどう扱うかがいつも迷うが、いろいろ揺れ動かされるため、結果としては素直に表現しているように思う。本物が大切な気がするため。そういう意味では他のクライエントよりも、より中立性という概念は薄くなる時期があるのかもしれない。」「より介入的になる。生命の安全の確保や、社会資源も必要なら先に提示していく。他の機関と連携しながら、心理学的アプローチの手前のケースワークの領域のところまでもする場合がある。」「たとえば、クライエントの自己実現を援助するとか、内的世界を洞察するといった方向には、そうすることに意味があるという前提(一定の価値観)がすでに含まれている。従ってクライエントが被害者として傷を負っており、その傷は癒された方がよいと考えることは、カウンセラーとして当然なことであり、一般的な治療的中立性という立場との間に矛盾はきたさない。」「たとえば精神分析における、治療者の態度、中立性についてもより厳密に言えば、治療論・技法論上は“断然一つの立場に立っている”からこそ行うのである。(言葉を介しての治療的接近には価値があるという確信的立場)。だからと言って、クライエントに治療を強制したり、この治療者側の確信を押しつけるのではない。」

質問5:ハーマンは『心的外傷と回復』の中で、犠牲者となった人たち相手に働くということは、道徳的には断然一つの立場に立つことが必要だとしていますが、それについてどのように思われますか。 「たとえばレイプにおいて、女性側の“落ち度”挑発的な服装、香水、あるいは危険な時間と危険な場所を歩いていたということによって、その女性の有責性を付与するかどうかという問題を絡んでの言明で、何がどうであってもレイプはレイプで・・・情状酌量すべきではないという点については異論がない」「心的外傷が人間存在にかくも破壊的な力を及ぼすことが判明した以上は、“心的外傷たりうるような、加えられた行為”に対しては“悪しき行為とみなす”という道徳的立場に立つのは当然とみなされる。だからといって、例えばレイプされた人に初めから告訴しろと強制するなど(本人がまだ呆然としているのに)が、中立性に違反することになる。」「今まさに虐待を受けつつある子どもをその状況からどのように救いだすかといったことを、考えなければならないとき、心理職であってもその場に介入し、事態の改善をはかる作業に加わり、役割を果たすことができ、かつ必要である。(自分はカウンセラーだから、中立的な立場でなどと言ってすまされない)。このようなとき明確に“断然一つの道徳的立場”に立っている」「子どもを虐待する母親面接をすると、母親もかつて虐待を受けていた子どもであることが多いのです。・・・トラウマを抱えている人でもあり、子どもにトラウマを与え続けている人でもあることは、私の中に複雑な思いを起こさせることがあります。時にはどうしても子どもの側に寄ってしまう自分を感じることがあります。“道徳的に断然一つの立場”に立つことは必要なこととは思うのですが、時に上記のような思いで揺れるのです。私は“人として”かけがえのない価値ある方として、大切に会おうと心がけています。」「『心的外傷と回復』で、ベトナム加害者のPTSDについての治療が述べられていますし、犯罪者の多くはPTSDに苦しみ、その結果自首したとあります。これは倫理的に単純でない問題を提供します。」「そうだともいえるが、逆に治療的枠組みを守り、治療関係を維持していくためには、あまりにもこの立場をとることは発展性がないし、回復をおくらせると思う。」

質問6:トラウマを持つ人への治療において、通常の治療の枠を超えたことがありますか。 ほとんどないとの回答が2名。「クライエントのほとんどが急性期の人ではない」「他機関連携の時間を裏で使うことはある。普段、こちらからは連絡をとらないが、心配なケースではこちらから連絡をとる。」 あるとの回答が5名。「面接の終了近くなってから外傷体験にまつわる話のため、非常に不安定になったようなとき、落ち着きを回復するまで時間を延長。その他、定期以外の電話による相談など。」「面接日が祭日などにあたった時は(時間が許す範囲で)替わりの時間をとる。電話を緊急対応ととらえ受ける。(通常は日時の確認以外は面接時に話すように理解してもらい、話を受けないようにしている。)」「治療前期においては、通常の枠に融通が必要で、徐々に枠を守っていけるような援助が必要だと考えている。」

質問7:ハーマンは、中立性に影響を与えるものとして、代理受傷(vicarious traumatization)を指摘しています。経験を積んだ治療者であっても、以下のことが起こることが稀ではないとされていますが、次のような体験をされたことがありますか。体験したことがあることを、いくつでも、番号に○をつけてください。 1.クライエントと同様の怒り、恐怖、悲しみ、絶望などを感じる。7名 2.治療者の夢や空想の中に、クライエントの物語のイメージがよみがえる。3名 3.過去に治療者が受けたトラウマが再活性される。3名 4.自分の感情を麻痺させてしまいそうになる。1名 5.クライエントの物語る内容に懐疑的になったり、事実を過小評価したり、合理化する。 3名 6.クライエントの行動などに対して、反発、嫌悪、軽蔑、恐怖、憎悪、厄介払いしたいという気持ちが沸く。6名 7.患者に操作されたり、搾取されているように感じる。3名 8.孤立無援感をもつ。3名 9.治療者として力不足だと感じたり、自分への怒りを感じる。 (または、自分が熱意が足りないとか、もっと社会に働きかけなくてはと感じる) 6名 10.他の人間一般に対して不信感を持つ。 1名 11.うまく治療できなかった前の治療者への怒りを持つ。4名 12.被害や災害を自分は免れていることに罪悪感をもつ。 (または、私生活のありふれた楽しみを享受することが困難に感じる)2名 13.クライエントの人生に過剰な責任を感じる。2名 14.苦痛を再体験させたことに罪悪感をもつ。 1名 15.救済者の役を演じる。 2名 16.燃え尽きたように感じる。1名 17.面接中に治療者が乖離体験(離人感、非現実感、知覚変容)をする。 2名 18.性的に巻き込まれそうになる。 0名

質問8:上記以外に先生が治療的中立性が保てなくなるサインとして感じられていることがあれば教えてください。 「過度の疲労。これは中立性を保つ努力そのものの危機の表現でもある。また、そういうリスクが増大している状態でもある。」「ひどい眠気に襲われる」「非常に敏感になってしまう」「無力感。」「面接時間が近づくと気が重くなる。」「自分の中にクライエントへのネガティブな感情が生じてくる。」「自分の気持ちが穏やかでなくなる。」「そのクライエントのことが日常的に頭にある状態となる。」「他のクライエントの面接中に、違うクライエントのことを思い浮かべてしまう時」「苦痛の再体験を重要な治療機点とする考えに立つ余り、“よかった、ここまで来た!”の感じの方が強くなってはいないかと思うとき。」「そのクライエントとの面接を楽しみにしているという感情がやや強いと思うとき。」「そのクライエントが現役のカウンセラーなどで、その病理に基づいてめちゃくちゃな心理面接をやって無反省でいるような場合、私の中でセラピスト・アイデンティティの方が先になりがち、気の毒の感情が先になりがちな場合の時。」

質問9:上記のような状況を最小限にするために、どんな工夫をされてますか。もしくは、どんなことが必要だと思われますか。 「ケースの予測と枠の設定をきちんとしておく。枠を広げると狭くするのは難しい。かちんとしていて徐々に広げていく。」「口の中で以下のことをつぶやく。『私は○○(クライエントの名)ではありません。私は○○(私の名)です。』または、『私は子ども担当ではありません。私は親担当です』」。「今自分はこのクライエントに対して何を感じているかをテーマに自由連想をしてみる。・・・すると自分の逆転移感情の質などが分かり、それを通じてクライエントのメッセージ(と自分の固有の問題など)を読みとる可能性の道が開ける。」「話せる仲間に秘密厳守で話してきいてもらう。」「治療チームの中での相互スーパーヴィジョンなどによる、援助者の相互サポート体制を用意するよう心がけること。」 「自分の心身が疲れた時の回復法としての具体的な処方箋を用意しておくこと。」「気分転換を積極的に図る。事例のことは考えない。数日おいてから考える。」「ホビーを持つこと。」「長期休暇などの場合には意識して仕事とは関係のない異質な世界の中に身をおくこと。」「ほどよいユーモアを含む、家庭生活の中にいること。」

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