エッセイ
6月の風物詩、水無月と梅と/安田裕子
6月、この時期のお楽しみのひとつに、和菓子・水無月がある。1年の中間地点まできたこの6月。古都京都では、1年のちょうど半分が終わったところである6月30日に、残り半年を無病息災で過ごすためにと行われる祈願神事「夏越の祓(なごしのはらえ)」のひとつとして、水無月が楽しまれていた。
宮中では旧暦6月1日に、「氷の節句」が行われていた。それは、冬にできた氷を山間の氷室に貯蔵しておき、そこから取り寄せた氷を口にして、夏を健康に過ごせるよう祈るというもの。しかし、庶民にとって氷はとても珍しく、なかなか口にすることのできない高級なものであった。そこで、氷をかたどった三角形の生地に、厄除けの小豆を散らしたお菓子が作られたのだという。水無月は、庶民の氷への憧れからできた銘菓でもあった。
(日々是活き生き―暮らし歳時記 http://www.i-nekko.jp/ より)
氷がそれほどまでに贅沢なものであったのかぁと思いながら、なおさら水無月の価値が私のなかで高まっていく。水無月は、それを食べないかぎり6月は終わらない!というほどに、わが家では(とりわけ私にとって。笑)、この時期に欠かすことのできない和菓子である。自動車で20~30分のところにある和菓子屋さんで作られている水無月が、これまで食べたなかで私の一番のお気に入り。毎年6月になると、白の水無月と抹茶の水無月を1つずつ、それを2,3回いただくのが、私の楽しみ。
じつはもうひとつの6月のお楽しみに、梅がある。6月の上旬、身内の者が、知人が栽培している梅の収穫の手伝いに行き、そのお土産?に梅をたくさん持ちかえるのがここ数年のこと。そして、その梅たちは、自宅で、梅ジャム、梅干し、梅酒や梅シロップへとかたちを変える。もっともそれ以前からずっと、母が、梅干しや、梅酒と梅シロップをこの6月の時期に作るのがわが家の習慣であった。ついでながら、同じ時期に収穫される新ショウガは、梅干しを漬けた後に残る漬け汁で作る紅ショウガと、ピンク色にかわいらしく染まるショウガの甘酢漬けに。そして、お寿司やホカホカご飯のおいしさを、存分に引き立たせてくれる。また、新ラッキョウは、ラッキョウの甘酢漬けとなって、カレーライスの御供として食卓に欠かせない副え物に。ずっと母が専属で作ってきたが、ここ数年は、父も母の手伝いをするようになり、それがいまやむしろ父がメンイとなって、これらができあがる。
梅ジャムは、梅の収穫の手伝いが始まったころからわが家に登場するようになった、愛しの成果物である。それ以前からすでに梅干しや梅酒・梅シロップを作る習慣があったので、いただいた梅を他にどう活用するか?ということとなり、結果、梅ジャムを作ってみよう、ということになったのだ。それが先か後かわからないが、ここ数年は、イチジクが旬のころには小さな種がプチプチする触感が楽しいイチジクジャムを、紅玉がでれば優しい紅色にそまったリンゴジャムを、というように、いろんなジャムを作るようにもなった。休日に、ホームベーカリーが焼き上げてくれた焼き立て食パンをいただくのもまた私の楽しみのひとつだが、中は熱々のふわふわ、外はバリっと香ばしい食パンに、バターにくわえて自家製のジャムをちょこっとのせて口にほおばるのもまた、ハッピーなひとときである。
ささやかな幸せ。それを感じられるということ。日常のなかには有難いことがたくさんあるなあと、そんなふうに思うことが、年を重ねるにつれてなんだか増えた。だからこそ、年を積み重ねるって素敵なことだなぁともしみじみと。ふと、2年前に家族の祝いごとで旅行に出向いた先の熱海で、樹齢2000年を越えるという国指定天然記念物の大樹から、なんだか偉大なパワーをもらったような気持ちになったことを、ふと思い出す。もっとも、生きとし生けるものの寿命はわからないもので、残念ながら、幼くして、若くして、失われてしまういのちもある。どちらがどうか、という問題ではない。いのちあるそれぞれに、いまのこの貴い時間があるということ。どんなふうにいまを過ごし、どのような自分であろうとするのか、ということ。大事にしていきたい課題である。
この6月を楽しませてくれる、やわらかい小豆のよくあったもっちりとした水無月と、酸味と甘みとが絶妙なバランスの梅ジャムから、アブダクティブに、いまこのときの有り難さと、こうした気持ちをわすれずに生きていくことの大切さに、思いを馳せた。
(2017年6月)