エッセイ

只今、修行中/おだゆうこ

二週間ほど前のことだが、7歳になる長女と5歳の次女が、友達の家に遊びに行くことになった。仕事帰りに迎えに行くと、子どもたちは外でおやつを食べていたらしく、友達のお母さんも出迎えてくれた。帰りには手作りクッキーのお土産までもらい、「よかったねー楽しかった??」なんて言いながら帰路についたが、子ども達は、いつになく口数は少なかった。普段は「ありのぉーままのぉー♪」とアナと雪の女王の主題歌をエンドレスに熱唱するか、今日の出来事や晩御飯のメニューをあれこれと話しかけてくるので、「おや??」とは思ったが、はしゃすぎて疲れたのだろうと、さほど気に留めず夕飯準備をしながら、友人へクッキーのお礼と子どもたちの様子についてメールをしていると、なんとまぁおどろくべきことに、次女が友達宅の玄関のドアガラスにひびを入れていたことが判明した!!

これはなかなか衝撃的な出来事だ。玄関のガラス戸にヒビを入れたのもショッキングだが、何よりショックなのはそのことを二人とも口にしなかったことだ・・・。何はともあれ、まずは、子ども達に何があったのか事情を聴くことにした。どうしてドアにひびが入るようなことになったのかは、概ねこういう話だった。

友達宅の前には土手があり河原があるのだが、その土手から家の玄関のタイルに向かって、お姉ちゃんたちが石を投げて遊んでいたそうだ。それを見た次女が面白そうだと思い、同じように投げたところ勢い余って玄関のガラス戸にあたったという・・・。

河原にむかってなげるのならまだ話はわかるが、なんで玄関の方なのだろうか?! 「どうして、家の方に石を投げることになったの?」「投げたらどうなるか考えてみた?」等いろいろ質問をしながら話をきいてみたが、結局、「おもしろそうだったから」というのが正直な所で、それ以外のことは考えてなく、事が起きてはじめてどうしようと思ったようだった。

友達のお母さんが「大丈夫、大したことないし、おばちゃんもみてなかったから、いいよ。大丈夫。怪我がなくてよかったね。」と、優しく話をしてくれて本当に言葉通り「もういいんだ」と一旦ホッとした様だったし、「割ったのは妹だけど、自分がしだしたことだし自分が怒られると思った」「なんていったらいいかわからなかったから・・・」とお姉ちゃん。妹は「だってお姉ちゃんがしてたから・・・」と姉のせいにするし・・・これには正直まいってしまった。

子ども達は、喜怒哀楽が豊かで、自分が何が好きでどうしたいのか、自分にとって心地よいことや嫌なこと、自分なりの意見や主張を持っている。だからこそ人にもそんなに悪い事もしないし、人の気持ちもわかる子に育っていると思っていた。姉が小学生になってからは、子ども達だけで友達の家にお邪魔したり、我が家にお泊りに来てもらうことなども増え、母が居なくても大丈夫になってきたなぁと思っていた矢先のことだった。また、細かなことはさておき、大変なことや困ったことがあれば母には話してくれるだろうという信頼のようなものがあった。

今回のことも大目にみると、子どもらしい言動と言えなくもないが、このことは今までのように受け止めてはいけない気がした。子どもと親自身をみつめなおしなさいと言われている様な気がしたのだ。

今までの子育てを振り返ってみると、命や大きな怪我にかかわること、自分と人を大切にすること以外は基本的には厳しく言わず、のびのび子どもらしく育ててきた、というより育ってきた。日々の生活(食べる、働く、遊ぶ、寝る)を楽しむための工夫や知恵を出し合ったり、そのための労力はかけてきた。その結果、子どもたちは毎日いろんなことはあってもイキイキして楽しそうだし、喜怒哀楽を出しながらも自分や人と折り合うことも身に着けてきた。

よく考えてみると、自分たちの欲求(したい事)に従って、不快を快にしていく力はしっかり身についているが、親からの又は社会からの要求(するべき事)は二の次、三の次(まぁいっか)になっており、自分の内なる欲求に基づいて行動し適当なところで他人と折り合うことはできても、社会的な枠組み(時間や約束)といった自分の外にある一つの基準に向けて自分をもっていく力が身につくようには育ててこなかった。それは、私自身が社会的枠組みに(一方的に)自分を合わせることに、違和感や窮屈を感じてきたことに大きく関連していると共に、子ども達に小言をいったり、一方的に怒る時は、このことができていない時であるという自己矛盾とも向き合わざるを得ないということだ。

こうして、その夜は夫婦会議を持ち、今回のことは軽くながさず大事にしようということで合意した。まずは、一連のことを振り返り、家族4人であやまりにいくこと。それから、それぞれその反省に基づき家族で一か月間自宅修行を始めることになった。「今ままでママやパパは何をしたらいいか、してはいけないか、言うべきことはいーっぱい言ってきたし、もうこれからは言いません。自分たちでしないといけない事は何かを自分で考えてやること。姉妹はチームなので、教えてあげたり、相談したり、手伝ったりすること。パパやママもするべきことをきちんとするし、子ども達にうるさく言わない。怒らない。だけど、二人がちゃんとできているかはよく見ているから、六月二十日までみんなで自宅修行しよう」と話をした。子ども達からの質問や意見もたくさん出て、みんなで納得して開始をした。とは言え、次女にはなかなか厳しい課題であるし、心配もあったが、やってみると今まで私がうるさく言うよりはよっぽど効果的に、やる気をだし、自主的な努力をみせてくれた。

最初の一週間は私が一番しんどかった様に思う。それもそのはず、平日この修行を全うすべく、よきモデルとなり、子ども怒らずに励ますのは私なのだから! しかしながら、子どもの為でもない限り、慣れ親しんだ自分を変えることはできないのも事実であり、家族みんなで頑張る機会を得たのだから、ここはひとつ頑張ってみたいと思っている。

もう少し、深めてみると、このことは学校や施設と言った社会の中で心理臨床の仕事をしている中でもぶつかるテーマである。「ありのままの自分」と、「社会的な存在」であるというべきか、「受容」と「適応」というべきか・・・私の効き目は職業的なこともあいまって、やはりありのままの自分でいられることと、そのことを理解したり受容する環境をつくることに力を注ぎやすく、社会的な存在として集団やルールに適応すべきだと考える人たちとなぜか対立構造に置かれてきた。よく考えれば、これらはどちらの方が優先とか大事とか、対立することではなく、両目で子どもたちの育ちを見守り、保障していくことなのだ。頭ではわかっているのだが、実践となるとなかなかしっくりこない。

公私ともの課題として、ありのままの命がイキイキと輝くことを軸としながら、社会の中でいきていく力をつけていくことにも目を見開いて、両目で子ども達をみていくこと、双方が程よいバランスで共存していく道を模索していくことにあるように思う。まずは、目をそらしたり、曖昧にしたくなる、自分の課題と向き合いながら、日々のやるべきことをきとんとしていくべし。既に中だるみになりつつある、昨今、エッセイに書くことで、気合を入れ直したいと思う。(2014年5月)

  1. 一覧へ
ページトップへ戻る