エッセイ
育ちのサイクル/おだゆうこ
フェリアン京都カウンセリングルームでの初めての夏。スタッフとの共同作業の末、二部屋目のカウンセリング環境が整い、この八月にいよいよ二部屋稼働となる。一部屋目とはまた雰囲気の異なる、癒しの部屋にしていきたいとおもっている。少しずつ手を加えて、日々わからないくらいの変化をしていくカウンセリングルームを目指したい。
暑い中、しんどさを抱えながらも来談してくれるクライエントさんの心身に木陰が提供できればいいなぁと思ったり、こけ玉、お香のような地に足がつくような落ち着くアイテムの力も取り入れたいなぁとあれこれ考えてみる・・・。
カウンセリングの時だけでなく、祈ったり、願ったり、想いやイメージをお部屋に込めながら、空間がもつ力も借りてクライエントさんをサポートしていけたらと思っている。
私自身としてはこの8月で36年目を迎え、カウンセラーとしては13年目を迎えることになる。駆け出しのころから、さまざまな逆境の中を生き延びてきた人たちに鍛えられ、教えられて、今の私があるように思う。駆け出しの無力な私が、カウンセリングを続けられたのは、クライエントさんからの学びとレジリエンスとの出会いが大きかったように思う(「レジリエンスに着目した子どもへの支援」女性ライフサイクル研究第16号参照)。
レジリエンスとは、有機体の中に備わっている恒常性のようなもので、環境の変化に対応する力のことである。そうした力によって人間や生き物は現在まで様々な進化(変化)をとげなから生き延びてきたとも言える。そうした力は心にも同じく備わっているという考え方がレジリエンスである。
圧倒されるトラウマの渦の中でも人の体は、心は、生きようとすること、どんな状況にあっても人はいつも打ちひしがれているわけではなく、いつも支援を必要としているわけではないということ、症状や問題行動の内実は自己防衛であったり、悪環境への抵抗であったりもするが、そうしたラベリングによって、生きようとする力を見失っている可能性があるということを教えられた。
虐待やDV環境にある人たちと向き合っていく中で、心の専門家である限り、私が何かを提供し、私がクライエントをよりよい状態にしなければと思っていたことが、いかにおこがましく、無益なことかを思い知らされた。
逆境下にある人たちは、私が考えるよりも、はるかに長い間よく考え、よく観察し、感覚や直感を研ぎ澄まし、工夫を凝らして、危うくとも自分なりの生き方をしてきた事実がある。そうした事実にしっかりと目を向けていくと、大きなストレスによる傷つきや弱さ、それを跳ね返す力や強みの両面が見え、その凸凹こそがその人独自のレジリエンスであり、個性であるということ。また、外側から一方的に与えた解釈やアドバイスがその人の力になるのではなく、内側にある本人の力を見出し、引き出していく共同作業こそが本当の力になりえるということに気付かされる。
心の専門家とは、私にとっての専門性とはなにか?これからも自問し、悩んだり、迷ったりしながら人間性の土台を育んでいきたいと思う。
これからも、クライエントさんに育てられた力や知恵や知識を、自分の畑でたがやしつつ、新たなクライエントさんに還元していきたいとおもっている。こうした育ちのサイクルもあるんだなぁと不思議にもうれしく思う。(2014年8月)