エッセイ

「らしく」生きる/安田裕子

 『フライド・グリーン・トマト』なる映画を鑑賞した。子育ても終えて、夫と2人で暮らす中年女性のエヴリン。エヴリンは、自分自身に魅力を感じることができず、日常的に食べ続けては太る原因となっているチョコバーすらやめられず、なんのとりえもない自分に自信をもつことができない。そんな自分をなんとかしたいと、また、夫婦の間にロマンティックな?愛情を取り戻そうと、(あやしげな)意識啓発セミナーに通う。一方、仕事から帰宅早々にテレビ中継のスポーツ観戦に夢中なままに、エヴリンと食事すら一緒にとろうとしない夫。そんな夫に不満を抱くエヴリンだが、表立って夫に不平・不満をぶつけようともしない。夫は、エヴリンの悶々とした気持ちにまったく気づかず、なんの危機も感じていない。むしろ、夫婦安泰であるとさえ思っているのでないかという様子。そんなある日、エヴリンは、叔母への面会で訪れた老人ホームで、細面の元気ではつらつとした老女ニニーと出会う。そして、ニニーはエヴリンに、昔話を語り始めた。

アメリカ南部の小さな町に暮らす、男の子まさりの少女イジー。イジーが、自分のことを理解してくれる最愛の兄を、突然の事故で失ってしまうところから物語が始まる。失意のどん底にたたずみ、決して立ち直ることのなかったイジー。そんなイジーにそっと優しく寄り添ったのは、亡くなった兄の恋人であった、やはり悲しみを背負ったルースだった。性格もものの考え方もまったく異なるイジーとルースであったが、愛する人を失った2人は、少しずつ理解し合い、友情で結ばれていく。月日が経ち、ルースは結婚することとなり、2人はその後しばらく会うことはなかった。しかしイジーが久しぶりにルースを訪れると、そこには、差別主義者で妻に対してもひどい暴力を振るう夫と暮らす、ルースの姿があった。イジーは、妊娠していたルースが夫から逃れるために助力し、その後2人は、黒人やホームレスたちも迎え入れる食堂を経営し始める。ところが、やがて、ルースとその子どもを連れ戻そうとする夫に見つかってしまい、アメリカの秘密結社・白人至上主義団体であるクー・クラックス・クラン(KKK)からの迫害といえるようなひどい仕打ちも受ける。そうしたなかで、その夫が突然の行方不明に。以前、夫のもとからルースを連れ出す際に、イジーが彼(ルースの夫)についた悪態から、殺人の嫌疑が、イジーと、食堂経営を手伝う黒人男性にかけられる・・・

映画のタイトル『フライド・グリーン・トマト』は、イジーとルースの2人がともに経営していた食堂の名物料理である。まだ青いトマトをスライスし、衣をつけてフライパンで揚げたもの。おいしさはいかほどか、、、私はまだ試してはいないが、なすびやかぼちゃのフライが大好きな私としては、結構おいしいかも、とひそかに思っているところである。それはさておき話を元に戻して、イジーとルースは共に暮らしその食堂を経営するなかで、2人の絆はより深く強いものになっていく。なお、映画では友情が表のテーマとして描かれているようであるが、原作では、同性愛もまた重要なテーマのひとつとなっているとのこと。映画では、イジ―とルースとの同性愛をにおわせる場面がないとはいえないが、同性愛のテーマ性は随分薄められている。

エヴリンは、老人ホームを訪れてはニニーから話の続きを聴くのがとても楽しみになっていく。ニニーもまた、興味深く話を聴くエヴリンに会うのが待ち遠しい様子で、2人は会うたびごとに親密になっていく。そうしたなかで、エヴリンは、自分の自信のなさや不甲斐なさをニニーに吐露したりしながら、ニニーとの触れ合いとニニーが語る物語を通じて、(意識啓発セミナーでは決してなしえなかった)自身を省みるということを行い、自らの人生に希望を見出し始め、髪型、服装、そして振る舞いも変わっていく。その様相は、やや極端に描かれている面もあるが、それは、映画としてのわかりやすさや面白みを強調することや、映画がつくられたアメリカという文化的なことに由来するだけのものではないだろう。エヴリンの行動変容はあまりに劇的ではあるが、そこからは、ずっと声を出せずにいた―自分自身の感じ方や考え方すら意識化できていなかったのかもしれない― 一人の女性が、自らこもりそこにとどまり続けていた厚い殻を打ち破り、背負ってきた自らを縛りつける役割から解放されるということの意味はもとより、それに伴いうる困難や負担―そうした変容を(しぶしぶでも)受け入れる人がいなければ、決してなしえるものではない―についても、思いを巡らさずにはいられない。

性(男女)、ドメスティック・バイオレンス、人種差別、貧富、障害など、複数のテーマが盛り込まれた内容が、イジーとルース、ニニーとエヴリンという2組の対照的な人物の間で繰り広げられる物語として、過去と現在を行き来しながらの二重構造により、展開されていくという構成。そこには、女性の生き方という軸となるストーリーラインが存在してはいるが、それにとどまることのない、人が人として生きていくということを考えさせられる素材がちりばめられている。そんな映画鑑賞を、多様な感じ方・考え方・声を響き合わせる学びのひとつに位置づけた。男であるとか女であるとか、人種がどうであるとか、障害があるとかないとか、という次元を超えて、人が人として「○○らしく」生きるということについて、感じ考えるよい時間となった。(2014年8月)

  1. 一覧へ
ページトップへ戻る