エッセイ
歩み結んでゆく道/安田裕子
先日、人前でキャリアパスの話をする機会があった。キャリアパス(Career Path)とは、そのまま訳せば、「経歴(Career)を積みゆく道(Path)」という意味合いのことばである。過去の職歴から、現在の職業を通して、今後に向けた希望や展望などを見通し職業上のプランを立てるうえで、しばしば用いられる。企業の人材育成や人事戦略においてよく使用される用語ではあるが、職業にかかわっての用途に限られるものではない。つまり、キャリアパスということばには、人がいかに自分自身の道を歩み進めるか、という観点が含まれているのであり、教育の現場でも、キャリア教育なるものの必要性・重要性が認識されている。日本の学校におけるキャリア教育推進の基盤となったという、文部科学省によって2004年にまとめられた『キャリア教育の推進に関する総合的調査研究協力者会議報告書』では、キャリアは「個々人が生涯にわたって遂行する様々な立場や役割の連鎖及びその過程における自己と働くこととの関係付けや価値付けの累積」と定義されている。
私がキャリアパスの話をする機会を得たのも、大学という教育機関においてであった。とりわけ、研究職に就くことを将来展望にもった、院生や若手研究者に向けたセミナーで、である。すこし先のところを歩いているOGの立場から、という枠組みによるもので、(マイクを通さない)生の声でもしっかり届くぐらいの距離感のなかで実施された。まず今のキャリアにつながる私の数年来の固有のストーリーを話し、それをもとにして、どのようなスキルや姿勢が重要であるかをシンプルにまとめる、という構成にした。求められるスキルありきではじめるのではなくて、自分自身が何を大事に思ってどのような経験を蓄積し、それを社会のなかでどのように役立てていこうとしてきたのか、ということを、各聞き手が自ら歩んできた固有の歴史をもとに考えてもらいたい、そして、履歴書や職歴書や業績書を見た目に立派にするというような付け焼き刃的な有り様ではなく、それらに明記できることの行間を埋めるような自らの経験に丁寧に向き合うことを通じて、唯一無二のキャリアの豊かな実りをしっかりと実感してほしい、という願いを込めて。
聞き手を前にして話す体験談としてのキャリアパスは、その性質上、全体として、上り調子の筋書きになるわけだが、もう一方の現実として存在する、たくさんの失敗談や落ち込み経験もまた、話のなかに盛り込んだ。もっとも、自分の失敗を振り返り意味づけることは、わるくない作業であり、むしろ、時間の蓄積のなかで、失敗やしんどさがプラスの経験として実を結んでいくようなことがあるのだ。こうした、決して成功譚に終始するわけではないマイナスの経験をも極力伝えることで、展望をもって、しかし先行き不安ななかを歩み進めている若い人びとに、美辞麗句ではない実質的な励ましを届けることができれば、と考えた。
夢や希望をもち、憧れを抱いて、前に進んだり何かに挑戦しようとすればするほどに、ぶ厚くそびえ立つ壁にぶつかったり、自分のできなさに不甲斐ない思いをすることがあるかもしれない。しかし、持論を展開すれば、それでもやっぱり続けていくことによって、見えてくる光があり、拓かれゆく道が、きっとある。もちろん、過酷なことに曝され向き合い続ける必要はない。雨がふれば、傘をさしたり雨宿りをしたり、あるいは、家に戻って雨がやむのを待ってもよいだろう。嵐がくればなおさら避難が必要だ。霧や靄がかかっていたり、どんより曇りがちな日でも、じっと待っているなかで、天空が明るく晴れてくることだってある。つまり、やすむのはOKであり、やすみもってでも辞めないでやっていくことが重要なのである、と。もっとも、努力をし続ければ必ず報われると断言できるほどに、簡単な世の中ではないだろう。なかには、あきらめが肝心なこともある。しかし、長い時間軸をそこに挟み込み、展望を大きく見据えれば、回りまわったり目指す方向性の軌道修正をしながらも、続けていくなかで実りゆくものがきっとある、と考えることには意味がある。この世に生まれてきた人がそれぞれに、酸いも甘いも歩み進めてきた自分自身の道を大事に思い、ふと振り返って捉える経験に意味を見いだし、その次の歩みにつなげていく、ということを繰り返しているなかで、その人らしい素敵な何かになりゆくのではないかと、そんなふうに思っている。 (2014年12月)