エッセイ
老眼。/津村 薫
小学生の頃から強い近視だった。18歳からはコンタクトレンズを使っている。数年前から、そのコンタクトレンズで手元が見えにくくなってきた。
遠近両用のコンタクトレンズというのもある。これは向き不向きがあるようで、私の場合は眼科で試したら、うまく視力が出なかったようで、断念した。
そこで勧められたのは、いま使っている通常のコンタクトレンズの度数を下げること。遠くは多少見えにくくなるが、手元はある程度見やすくなる。ところが少しずつ度を下げると、今度は遠くが見えにくくなる不便が出てきた。
駅の案内が見えなかったり、大きな研修会場で全体の様子が見えにくいのは、私にとっては致命的なダメージだ。
「ちょっと不便過ぎて厳しいです」「あまりに下げ過ぎると、今度はレンズをしている意味がなくなってきますもんね」と眼科でも話したりして、また度数を少しずつ戻すことにした。
「それなら、遠くを見るためにレンズを使用して、手元のためにレンズ越しに老眼鏡を使うのが良いかもしれませんね」(裸眼なら遠近両用眼鏡が要る)と言われ、そうすることにした。
老眼鏡の先輩、かーちゃん(森崎)のアドバイスで初購入して、いま、仕事中や移動中に本やiphoneを見る時は、首から鎖でぶら下げた老眼鏡を愛用している。
遠くも近くもいい感じに見えて、これがなかなか快適。いま、パソコンもこの老眼鏡越しに眺めている。目をはじめとした自分の心身と、まだまだ仲良くつきあっていかないとね。
老いて見えなくなってゆくもの、そして見えてくることは何だろうか。
見たくはなかったことを記憶に刻むこともあれば、生きていて良かったと映る景色に目頭が熱くなるような経験をする。それが生きていくことなんだろう。
老眼鏡越しに上目づかいで話す母の表情は、亡くなった祖母のそれにそっくりなことを、ふと思う。私もまた、あの表情で家族を見上げて話すのだろうか。
しなやかに老いてゆければ。
(2015年1月)