エッセイ
学問を志す?!/おだゆうこ
今春にはフェリアン初出版の年報が出版される予定だ。まだまだ女性ライフサイクル研究所とフェリアンのスタッフと共に学び合い、励まし合いながら執筆している途中だが・・・きっと面白い報に仕上がるだろうと思う。
今年の年報のテーマでもある「抵抗」について私なりにあれこれ考えてきた。政治も教育もが危うい方向へ、おかしな方向へ突き進んでいることへの違和感や危機感をつのらせつつ、いろいろと想ったり、考えたりはするものの、他者としっかり共有しながら、考えを深めることも、何をどうしたらいいのか具体的な行動や生活にも結び付けられていない自分への問題意識から今年の年報はスタートした。
そもそも、考えたり、想ったりする以前に「おかしいな」「危ないな」と感じる本能的な嗅覚や、反射的に抵抗する力が弱まっているのかもしれない(つまり、生き物としての生きる力)と思ったりもするが、今回私が追及してみた「抵抗」は、異物や危険なことを察知する本能的な拒否反応、拒絶反応の方ではなく、私たちが社会の成員として、国民として所属している社会や国の方向性を見定めた上で自分がどう生きていくのかという方向性と意志を明確にするという試みだった。普段の日常生活でも、カウンセリングでも基本的には個人を中心にし、その個人を取りまく環境(家庭、学校、職場などの小さなコミュニティ)を視野に入れることで手一杯の生き方をしてきた私にとって、今回の試みは冒険のようなものだった。
個人を取りまく環境の先にある、私自身が生き、参画しているバズの社会や国といった存在を視野に入れ、自分の生活と結びつけながら社会や国の進む方向性の中に生きる自分を実感として捉えていく試みには、今までの教育の中では身に着ることが出来なかった新たな思考パタン(物事の見方、捉え方、組み立て方、考える方向性)が必要な気がした。そうした中で、いかに自分自身が、既存の教育システムの中で、学問(問うことを学ぶ)でも学力(主体的に学ぶ力)でもなく、教えられたことを疑わずに覚えること、編集すること(前提を疑わずに、与えられた知識や情報を分析せず、編集する学習)、もしくは、いかに効率的に正しい答え(表面的、一面的正解)を導き出すことを教わり、まじめに取得してきたかという現実に直面することになった。
今回の年報への試みは冒険の様に、雲をつかむ様なところからスタートし、どっちに進んだらいいのか、こっちの方向でいいのか、先行きの見えない不安の中で試行錯誤することから始まった。手がかりとなる地図は、今までの先人たちの歴史を振り返り、過去と現在と未来という時間軸の中で大きな方向性を読み取ること、そして、自分は何に疑問を持ち、何を問うていきたいのか?何を明らかにしていきたいのか?ということを何度も繰り返し自分に確認していくことだ。こうした道のりは苦しくて、何度ももう止めよう、引き返そう、違うテーマにすればもっと楽だったのではないかという雑念と不安と生みの苦しみを経験した。そうする中で先人たちの問いや迷い、試行錯誤に出会い、先人たちと問いを共有することで、嬉しくなったり、方向性が少しみえてきたり・・・。行きつ戻りつ、文献をあさっていく中で、浅く拡散していく思考から深みが出て、集約していく論旨が見えてきたりすると、おもしろくなってきたり・・・。そして仲間とのプロセスの共有や励まし合いを糧にやり通していく力得て、一歩前に進むと、少し先が見えて、やる気が引き出され、また新たな壁にぶつかり・・・という繰り返しだった。
こうしたすっきりとはいかない学びと問いの共有が学問なのかもしれない・・・とここにきて漸く学問を志している気もする。相変わらず本を読むのも文章を書くのも得意ではないが、もっとじっくり、ゆっくり、大きな時間軸の中で、どこにたどり着くか、何が見えてくるかわからない問いについて、考えを深めていくのは面白いことかもしれないと思うようにはなった。
さてさて、どんな年報に仕上がるのか?!そしてどんな私になっていくのか?!まだまだ深めきれていなが、いつか論文の中で見えてきた「私なりの抵抗」についてエッセイを書いてみたいとも思う。(2015年2月)