エッセイ

子どもを中心に!/おだゆうこ

この春に次女もいよいよ小学生となった。大好きだった保育園を卒業し、学校社会への仲間入りをしているわけだが、次女らしさがどこまで受け入れられ、次女がどのように社会化されていくのか、ある意味で楽しみにしている。外側から縛られるのが大嫌い(服も、髪形も)で、自分の思いを強く持った次女は、いたって子どもらしく、裏も表もなく気持ちがいいのだが、行き過ぎると日本的な集団の中では自己中心的に捉えられ、誤解も受けやすく、生きにくくもなるだろう。

私達が住んでいる地域は、2006年まで町で独立していたため、独自の保育や教育文化が根強く、与えられた環境(豊かな自然と共に)の中で子どもを町の中心に、子育てや教育をしてきたようである。そのため、保育園も独自の保育を行っており、基本的には大きな枠組みの中(自然や外遊び)で子ども自身の自発的な遊びを中心に、保育者は子どもの欲求や関心を引き出したり、子ども同士の関わりを手伝ったり促進させる、仕掛け人として存在しているようだった。あくまで主体は子ども達である。そうした関わりの根っこには、子どもの生きていく力を信じる子ども観があるわけだ。

市町合併後も保護者や保育者の抵抗のもと独自の文化が息づいていたわけだが、近年いよいよ、保育も教育方針も市のやり方に統一し、カリキュラムも同じものを用いる流れが押し寄せている。目の前に田や畑、山や湖が広がっているのだから、小さな部屋や園庭で遊ぶ必要はなく(そのためか、田舎なのに保育室や園庭はとても小さい)子ども達は、外で伸び伸びと自然を相手に、五感を思いっきり使って遊んでいたのだが、自然遊びや遠出のお散歩、その道中で採って来たものを調理して食べるという習慣は極端にカットされ、代わりに設定遊びが主流になっているようだ。園庭に白線で円を引き、キックボードなどの遊具を揃え、出来るようになったら免許証を与え、交通ルールやマナーを遊びの中に取り入れているそうだ。また、保幼一体の波にのり、机に座ってみんなで塗り絵をしたり、同じものを作る折り紙の時間が設定され始め、「それはそれで、いいのでは?」という声もあるようだが、そこには根本的な違いがあるように思う。設定保育の中心にいるのは大人であり、設定保育は大人なしでは成り立たないという違いである。そして、その根底には、子どもはまだ十分に判断できない未熟な存在であるから、大人が教え、管理し、指導していかねばならないという子ども観があるわけだ。

小学校、中学校に上がっていくと、こうした子ども観に基づく指導(躾)が多くなり、その延長線上に体罰(虐待)を容認する(節度ある方法ならよいとする)文化があるように思う。子どもも当然ながら、一人の人間であり、その年齢や環境に応じて自分なりの考えや判断をしながら、賢く生き抜いていることを、今まで出会った沢山の子ども達が教えてくれた。私ならとっくに希望を失い自分の世界に閉じこもったり、自暴自棄になっていると思うような逆境でも、子ども達はわずかな希望をみつけ、今までの経験に基づく知恵や工夫を駆使したり、自然や動物や物と交流することで生きていくエネルギーを得ていたし、比較的安定した環境にあるわが子達も、赤ちゃんの時から年齢に応じて形を変えつつ、ストレスとなることへ自分なりに対処して安全や安心を手に入れようとしてきた(もちろん、そこには環境となる親や大人の手助けが必要不可欠ではあるが・・・)。

社会的な不安が強まるほど、大人が介入し、管理し、支配していく志向性が強まり、子どもはその枠に押し込められて育つことになる。そして、反発したり、枠に入れない子どもは、問題児扱いとなっていく。そうした大人の関わりが、子どもが本来的に持っている力を奪っていくことをとても残念に思う。大半の大人は子どもの為を想ってこその、設定保育や統一カリキュラムなのだろうから。誰のための学校であり、保育園なのか?保護者が満足する学校や保育園となっていないだろうか?保護者の為の授業参観、保育参観、運動会、発表会となっていないだろうか?自分自身がどういった子ども観をもっているのか、今一度確認し、私自身の子育てもカウンセリングも見直していきたいと思う。(2015年6月)

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