エッセイ
整える/ 安田裕子
この夏、お盆の頃、思い立って、またある種の必然もあり、部屋の片付けをした。時間、スペース、そして、こころもち。この三拍子がそろって、なんだかうんと勢いづいた。
片付けていると、自分自身のおいたちを彩る出来事が、ちらほらと垣間見えてくる。地域のソフトボールクラブチームを退団したときの、チームメンバーやコーチや監督からのメッセージが寄せられた色紙。小学校・中学校を卒業するにあたり、クラスメートや担任の先生に描いてもらった、イラスト集やサイン帳。小学生の私が、天に届けるような想いで願いを込めて書き記した、お祈りのメッセージ。思わずフッと笑みがこぼれる。懐かしさと温かい気持ちとが、にじみ出るよう。節目節目のアルバムにも、魅せられる。写真のなかにいる、仲間、友人、そして家族。生きてきた歩みとともに居合わせてくれた、たくさんの人びと。これまでの私に想いを馳せつつ、その温かい感情はまた他者へと広がってゆく。有り難さと感謝の気持ちとともに、なんだかふんわりと優しい気持ちになる。
そんななか、中学校・高校来の親友が、顔を見に行ってもいい? と、訪ねてきてくれた。甥っ子くんと、妹さんとを連れて。妹さんと会うのはとても久しぶりだったけれど、面影はそのままに、元気そうでなんだか嬉しい。一歳をすぎた甥っ子くんとは、写真を通じて何度もお目見えしていたものの、直接的には初のご対面。赤ちゃんから、ことばにできないようなパワーとハッピーな気持ちをもらいながら、これからの人生、健やかに楽しみながら育ってね、と、思わずにはいられない。そして、私を気遣って足を運んでくれた友人の、そのこころ配りが、心底、有り難く。整理整頓をしながら想いを馳せた自分のこれまでにたくさん登場してくれる友人との思い出と、今こうして関係を結んでいるありようとをつなげながら、幸せな気持ちになる。
部屋の片付けとともに、少しばかり立ちどまって、自分自身のこれまでとこれからの整理をすることのできた、このところ。書物を介して先人のいくつかの生きる知恵と哲学に触れ考えることを通じ、自分の心身やこれからのことにしっかり向き合うだけの時間と場所に恵まれた非日常も、そしてそこでの人との関わりも、受けた温かさも、大きかった。
「ビュリダンのろば」というたとえ話をご存じだろうか。フランスの哲学者ビュリダンによるものである。飢えたろばが、2つのよく似た干し草の束が右と左に同じほど離れたところにあるのを見つけたとき、それらの働きかける刺激が均衡しており、しかも互いに反対方向にあるため、ろばは身動きできずに飢えて死んでしまう、という話である。示唆的な話であるが、しかし人間は、そのようにはならない、ということができる。ロシアの心理学者のヴィゴツキーは、「ビュリダンのろば」を、動物とはちがう人間の高次精神機能の説明に用い、人は刺激を入れることで自ら反応を創り出す能動的な働きがある、ということを述べた。
つつがなく過ぎる日常を維持していくことは、とても大切なことであるだろう。けれども一方で、変化の可能性は日常とともにある、ということもまた、覚えておきたいことである。眼を見開きこころを拓けば、自分自身にとって大事な変化が芽生えていることに、気づくことができるかもしれない、そんなことも考えた、このお盆。
人は、自らの人生の分岐点を創っていくことのできる存在でもある。自分の来歴を振り返り、いろんな意味で自分自身を整えることのできた、貴重な経験。きっとこれからに生かしていこうと、そんな想いをしっかりと育てているところでもある。
(2015年8月)