エッセイ
自分らしい終わり方/下地久美子
お彼岸に久しぶりに、実家のお墓まいりにいった。実家のお墓は山の上にあり、見晴らしはいいが、たどり着くまでに、いつもひどい車酔いをするので、なんとなく足が向かない。それに、『千の風になって』じゃないけれど、お墓に亡くなった人の魂があるとは思えないというのもある。
3年前の年報『女性ライフサイクル研究22号』に、これからお墓がどうなっていくかについて調べて書いた。
一般の人が今のような家族のお墓が建てるようになったのは、明治時代に家制度が生まれた以降のことで、それほど古いことではない。かつては先祖祭祀を目的とし、直系男子によって墓も仏壇も代々受け継がれてきたが、核家族化が進むにつれ、家が連続されにくくなり、跡継ぎがいないということも珍しくなくなってきた。
うちの場合、実家のお墓は、私がお墓の跡継ぎとなっているが、それを息子たちに引き継いだとしても、管理しきれないであろうし、夫側の実家のお墓はどうなるのか考えると、問題はさらに複雑になる。おそらく日本中に、これからお墓をどうするかで悩んでいる人がたくさんいるのではないだろうか。
私は、お墓なんてなくてもいいんじゃないかと考えている。しかし、遺骨をどうするかは、かなり厄介な問題である。日本では、遺骨は、特定の場所にしか埋めてはいけないという法律があり、勝手に自宅の庭や山に埋めてはいけない。散骨というのも広まってきているが、これも、どこの海でも撒いてもいいというものではなく、さらに骨を細かく砕く作業も必要で、家族に負担を掛けてしまうなと思うと、どこでもいいから、今あるお墓のどこかに入れてもらうのが、最も手間がかからないのかなとも思う。
少し前に読んだ本の中に、「死んだ人が、本当に亡くなってしまうのは、その人のことを憶えている人がこの世にいなくなってしまったときだ」という内容の一説があって、なるほどそうだなと思った。
人が亡くなったときに、肉体は消えるけれど、残された人の心に、その人の思い出は生き続ける。そっと思い出したり、亡くなった人のことを話したり、そして、自分が生きている限り、忘れないでいることが大切なんだと思う。
だから、わざわざお墓に行かなくても、いいと思っているのだが、一方で、もう何年も誰にも参られていないような荒れた墓石を見ると、不思議なもので、気の毒だなぁ~という気持ちも湧いてくる。
年に何回かは、お墓に参って手を合わせるという習慣も、失くしたくないようにも感じる。亡くした人との目に見えるつながりというのは、お墓であったり、仏壇であったりもするし、それが気持ちの拠りどころとなっているところも確かにある。
死んだあと、どのような場所に埋葬されたいか、されたくないのか、選択できる時代となった今、生きているうちに死後の準備をしっかりとしておく必要がでてきた。折に触れて家族と話し合い、お互いの希望を聞いておくのもいいし、調べると家族に頼らなくても、用意する方法やサービスもいろいろあるようだ。
私自身は、死後の希望は特になくて、身近にいた人がたまに思い出してくれたら、それ以上の願いはない。おそらく、亡くなった人は、自分のことよりも、あとに遺された人が楽しく幸せに暮らしていることをいちばん望んでいるのではないかと、勝手な想像だけど、そんな気がする。
(2015年10月)