エッセイ
結構なことです/津村薫
数日前の夜、夫が「安心してください」と言いながら帰宅してきた。
手には、私の元上司であるNさんからの年賀状。まもなく90歳を迎えられる方なので、毎年の年賀状で「ああ、お元気だ」とホッとしていた。ご無沙汰続きをすまなく思いつつ。今年はそれが届かず、「Nさん、どうしてはるんかなー」と私が気にしていたからだ。
昨年も年賀状が届かず心配していたら遅れて届き、お怪我をされていたことがわかった。そのリハビリは思うように成果が上がらなかったようで、「諸事万端不如意の年」と書かれていた。気骨のある逞しい方だけど、お年がお年だから無理もない。今回は我が家の住所を一部記入洩れで返ってきたことが記され、ごめんなさい!とあった。いやいや、そんなこといいんです。本当に安心しましたとも。
年賀状を手にすると、「家内共々諸事難渋の日々、此の機を以て止むなく諸賢との賀状交流は本年を以て最後と致したくお赦し願うことに思い至りました」とある。寂しいけれど、今年を最後に年賀状は出しませんといった卒業宣言が毎年のように高齢の友人たちからいくつか届くと母が言っていることを思い出した。
共にお仕事させていただいた当時が懐かしく思い出される。Nさんは常に冷静でありつつ、温かく丁寧で、上司より部下に厚い仕事人だった。厳しくもあり、曲がったことは大嫌いといった感じが伝わるのだが、ユーモアたっぷりで、話しているととても楽しく刺激的だったことが思い出される。指示命令タイプではなく、部下に考えさせ、自分で道を切り開くように支持してくれる方だった。とても尊敬していた上司で、私が若い頃は退職後もご自宅に遊びに伺ったり、お便りのやりとりをさせていただいたりしていた。
この方のことを私は2006年、なんと10年前のエッセイに書いている。タイトルは「お事多サン」。その当時から私は慌ただしく仕事をしていて、「お忙しいでしょうね」とよく会う人ごとに言われていたのだ。毎日のように講演・研修に出向き、合間にその打ち合わせや準備。原稿を書く仕事もあれば、理事をしているNPOの活動もあり、体ひとつで目一杯フル稼働という感じだったのだ。
恩師から「人間、忙しいうちが花ですよ」と言われ、そうかもしれないなとも思っていた。元気で働けている、ましてや好きな仕事ができている、なんとありがたいことだろうと思う。それなのに、Nさんからいただいたお便りを見て、当時の私はびっくりするのだ。
Nさんはその頃には既にリタイヤして、悠々自適の人生を送っておられた。多才で趣味も豊か、とてもセンスの良い方なので、達筆なお便り、素敵な写真をよく楽しませていただいていた。
その方が私の仕事のサイト日記をご覧くださったとのことで(特に何もお知らせしていなかったのに、初期の頃から新聞などで私の活動をよくご存知くださっていた)「あなたも結構、人生楽しんでますね」と書いてこられたのだ。
そうか、私は人生を楽しんでいたのか!と。確かに楽しかった。仕事や活動でわくわくしたり、じーんとしたり、どきどきしたり、発見がありと刺激的で。でも日々、目一杯働き、それを謳歌するゆとりもないのが正直なところだったのだ。仲間にも恵まれ、誇れる職場で好きな仕事をしているというのに、今もそんなところがあり、相変わらず私の人生忙しいんだなと苦笑してしまう。
「そうか、私って人生を楽しんでいたのですね。感謝が足りませんでした」とボケた返事を送ったところ、当時のエッセイのタイトル、「お事多サン」という言葉をNさんが教えてくださった訳だ。
「“結構者の結構知らず”こんな事、おばあちゃんから聞いたことありました。貴女の年齢ごろが一番あぶらの乗っているころではないですか」
「結構者の結構知らず」!まさに私のことではないかと愕然とさせられた。
メッセージはこんなふうに続いていた。「“お事多サン=オコトーサン”。その昔~僕の子供のころ、暮れに掛取りの挨拶として用いられ、相手の多忙(仕事の多い様)さと、家の繁栄を褒めたようですが、実に結構な状態が語感から偲ばれる言葉だとおもいませんか。忙しいことはええ事ですよ。頑張れるときは娘さんの為にも大いにやりなさい。貴女のエナジーな活動振りは、目に見えるようですが、娘さんの為にも頑張ってください。それにはあくまで健康体でなければ、なりません。ご自愛下さい」
「お事多サン」という言葉は、その時にはじめて知った。そういえば亡くなった義母は熱心な仏教徒で、何か良いことがあれば「結構なことや」と喜ぶ人だったのだが、「結構」という感謝の仕方も、私にはあまり馴染みのないものだった。その昔の愛読書だった『次郎物語』には、「自分の運命を喜ぶ」という言葉が出てきて、思春期の頃、考え込んでしまったことがあったことを思い出した。
足りないもの、得られないものを嘆くのではなく、持っているものをこそ感謝して、大切にする。そんな生き方をしてきたかといわれれば一言もない。私って「文句言い」だったのかもしれないなと反省させられた出来事でもあった。
2006年、娘がまだ高校生の頃だ。あれから10年。私はずっと元気に仕事をしているのだ。そして当時のNさんの世代に近づいてきた。お事多サンな人生、結構なことだ。
人生いろいろあるけれど、結構なことはたくさんある。結構でないことがあっても、それも人生だ。その中でも、気づいていない結構を見つけることはできる。また、いま結構でなくても、いつか結構なことに繋がるかもしれないのだ。目の前の事象だけで結構さを判断しないことも大事かもしれない。年を重ねた今、「結構」の探し方は確かに変わってきているような気がするが、結構者の結構知らずにならないよう、日々を喜んで生きていきたい。
Nさんご夫妻の日々が穏やかで良いものであることを祈りつつ、これまでの感謝をこめて。 (2016年1月)