エッセイ

桜の頃/おだゆうこ

今年の桜も咲き始めたかとおもうと、あっという間に散っていった。

「来週末まではもたいなぁ」と予定とにらめっこをしながら、できるだけ長く桜を楽しむために、関西域の桜前線を追いかけたくなる。「お花見休日ができればいいのに」と毎年思うのだが、桜(自然のリズム)に合わせて、予定を変更し「今この時を楽しむ」ために何かをあきらめることも大事なのかもしれない。

一方、桜の影響だけでもないだろうが、この時期はふわふわしたり、ドキドキしたり、ソワソワしたりして、身も心も落ち着かなくなる。春の天気と同様に心も不安定になりがちだ。

お花見気分にはとてもなれない人たちがいることも分かっている。

それでもカウンセリングの中で、「今年は桜が咲いたことに気づけるといいな」「桜から生命力がもらえるといいな」という話が出てくることがある。

それぞれ異なる場所で、異なる時ではあるけれど、「~さんも桜見てるかな?」と想いを馳せながら、桜見ができるのは私の密かな喜びだ。

どの花もそうだが、時が満まで力を蓄え、花開くときに放つエネルギーはものすごい。

あっという間に咲いて散る、その瞬間を迎えるまで、花が咲きそうな気配もなく、ひたすら寒さや暑さに耐える時期がどれだけ長いことか…その一連の力を生命力というのだろう。

中でも桜には、人を惹きつける生命力と不思議な力を感じる。一夜にして開花し、一瞬にして辺りを異なる風景に変えてしまう魔法のような力に魅せられてしまう。そんな桜の魅力を存分に感じられるのは、桜の名所ではなく、何気ない日常生活場面なのかもしれない。

そんなこんなで、今年は家の近くの公園で桜見をすることにした。思った以上に友達家族があつまって、朝から辺りが見えなくなるまで、食べて、飲んで、とにかく思いっきり遊んだ。久々に子どもたちとボールを追ったり、大縄をして飛んだり跳ねたり、公園にやってきた親子たちも一緒に「おやつ」をかけてリレー対決をしたり。決して運動は得意ではないのだが、評価や結果がつきまとわなければ、体を動かすことは楽しいことなんだと大人になって気が付いた。お腹がすいたらごはんやおやつを食べ、遊び疲れたら休憩し、それぞれのリズムでそれぞれが好きに遊んだり、休んだり、時折舞い落ちていく桜の花びらと呼応しながら…。

辺りが暗くなり、桜がぼうっと白く浮かび上がり、バトン代わりにしていた棒切れや、折り返し地点が見えづらくなってきたから、「そろそろ帰ろうか…。」と言うと、いつもは駄々をこねる子どもたちも止む得ないことを体感する。自然のリズムの中で、桜に見守られていると、自己感覚を大事にすることも、外側の環境と折り合うことも自然に両立することができることに、ふと気づく。

やるべきことが山積し、体調もすぐれなかったはずだが、1日の終わりに疲れではなく、なんとも言えない心地よさと満たされた感じが残った。

生き物としての感覚と自然のリズムを回復することで、私の中の生命力が活性化されたのだろうか。

最近は少し、現代人らしく生きすぎているのかもしれない(笑)。

皆さんは桜の頃、いかがお過ごしだったでしょうか?

さて、フェリアンも桜の頃に誕生し、満2年を迎えた。この間にカウンセリングを通してたくさんの人たちとの出会いがあった。終結し自分なりの生き方を見つけられた方、事情があって中断している方、再開したり、今も定期的にお会いしている方、それぞれの時が満まで、ともに悩み、ともに感じ、ともに考え、そして、いろんなところで生命力を活性化しながら、花開くときを共に信じて待ちたいと思う。

今年度もどうぞよろしくお願い致します。(2016年 4月)

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