エッセイ

日常性からのサイコウ/安田裕子

部屋の中、四面の壁にドアがひとつずつ。ドア①は台所に、ドア②はトイレに、ドア③はベランダに通じていて、ドア④は備え付けの物入れのひらき戸である。朝、目が覚めて、さあ朝ご飯を食べよう!と元気よくドア①をあけるかもしれないし、起きたらまずトイレだと、ドア②のノブに手をかけるかもしれない。一日のはじまりは新鮮な空気で深呼吸????と、すがすがしい表情でドア③に向かって大股で歩いていくかもしれないし、いやいやまずは服を着替えなくてはと、寝ぼけまなこで物入れのドア④に手を伸ばすかもしれない。

目が覚めて、どうするか。どうしたっていい。身体を起こして、いずれかのドアノブをつかみ、ひらき、動き出すことで、何か変化がついてくる。ドアの向こう側には今・こことつながる時空間が拡がっていて、4つあるドアは現在と未来を隔てつつむすぶ境界域。そんなふうにイメージしてみる。

ドアをひらけるという誰もがなす行為に、変化をとらえてみる。台所に行ってパンをかじれば、じんわり活力が沸いてくるかもしれない。物入れから寝ぼけまなこで取り出したお気に入りの着慣れた洋服にテンションがあがるかもしれないし、そろそろ新しい服を買わないとなあと思うかもしれない。意識できることであれ無意識的なことであれ、日常の振る舞いには、何かが変わったり生じたりする契機が潜在している。そして人は、その潜在を顕在にすることができる。それは、特定の誰かに特権化されたことではなく、日常のなかで誰もがなしうることである。

何をやってもダメダメだと、そんなふうに思ってしまうときがある。そんなとき、自分はいつもこうなのだとか、こんな性格だからだとか、あんなふうに育ったがゆえだなどと、固定的な観念に縛られていることが多い。そしてそこには、因果でものごとを決めつけてしまう思考パターンが見え隠れする。

それまでのありよう—過去の記憶―に囚われてしまうようなことは、誰だってあるだろう。しかし、過去の呪縛(に思えていること)から少し距離をとってみることができるのも、また真である。その契機となることのひとつに、日常に目を向ける、ということがある。部屋とドアによるアナロジーにみるように、日常には、程度の差こそあれ今後に拓かれる選択肢が存在している。小さくてもいい、アタリマエと思えることでもOK、何かを選び行動するなかで、生じる変化が、確実にある。

いつでもどんな状況でも、ちょっとした選択肢がそこここにあるのだと、そんなふうに考えてみよう。変化が起きれば、マイナスでしかなかった出来事の意味もまた変わってゆく。後に起こったことで、後でなしえたことで、それまでのありようすら変わる、という言い方もできるだろう。

そこには、「だけれども」ということばが秘める力がとらえられもする。望ましくない出来事は誰にも起こりうる。どうしようもなくしんどいときだってあるだろう。そんなとき、望ましくない結果「だったけれども」と考えることが、ある種の分岐点となる。むしろ、つらくくるしいときだからこそ、「だけれども」状況は変わりうるのだと、「だけれども」そこからはじめることもできるのだと、そんなふうに考えてみてほしい。「だけれども」と口にしながら、いくつかあるドアのひとつに手をかけ行動しながら、きっと起こっているであろう小さな変化に気づいていくということを積み重ねていく。そうした日常のなかで、それまでとは異なるありようが、世界が、きっとみえてくる。

(2016年8月)

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