エッセイ
ありふれた日々の中に、ささやかな幸せを/澤樹亜実
一時の幸せ、一日だけの幸せでは、ふつうヒトは満足しないよね。幸せは長く続いて欲しいとみんな思う、これは欲張りとは違う生命の自然。継続は力なりって言うじゃない、幸せの継続は生きる力をもたらすから、日々の暮らしを無理なく快適にするのも基本的に大事だとぼくは思う。
長続きする幸せは平凡な幸せだ、言葉を代えるとドラマチックな幸せは長続きしないからこそ濃い。幸せが毎日の暮らしの低音部を担っていて、幸せだっていうことにも気づかないくらいの、BGMみたいな幸せが、一番確実な幸せかもしれない。
―――谷川俊太郎『幸せについて』p10-11より
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今年は暑い日が続くなぁ...と思っていたら、突然、真冬のような寒さがやってきて、
「秋はどこへ行った?!」なんて思っていたら、気づけば今度は一年がもう終わろうとしている。
今年はどんな一年だっただろうか?
私は何かできただろうか?
一年の初めには、あれをしたいとかこうなりたいとか、あれほど希望に胸を膨らませていたけれど、一年の終わりになると、劇的な変化はほとんどなく、何もできていなかった自分、何も変わっていない自分に気付いて落ち込んでしまったりする。
そんなふうに、人は目に見える変化や成果など、形あるものにとらわれがちだけど(もちろんそれは大事なことでもあるのだけれど)、冒頭の谷川俊太郎さんの言葉のように、決してドラマチックな幸せじゃなくても、変わらぬ日常があること、実はそれはとても幸せなことなのかもしれない。
というのも、私自身、最近また細々と運動を始めた。
でも、決してジムに通い始めたとか、毎日外に出てジョギングをしているとか、そんな大層なものではない。人によってはそんなの運動したうちに入らないような、生ぬるいもの。
きっかけは、去年も今年もギックリ腰になってしまったこと。(仕事に支障がなく乗り切ったところは自分を褒めたい。)ベッドに横になることすら何分もかかり、まともに食卓にすらつけず、泣く泣く食事を諦め(本当にちょっぴり泣いた)、結局安静にするしか方法がなく、ほぼ横になるだけで終わった日々。
"二足歩行って、こんなにも難しいことだったんだなぁ..."
横になりながらそんなことを考えた。それは、当たり前のことが当たり前にできることの幸せに気づいた瞬間だった。
それからまた始めた軽い運動。ただ、これまで何度もチャレンジしては挫折していた私が続けられているのは、一緒に頑張っている友人がいるからだと思う。遠方に住んでいるので、LINEで連絡をとりながら、「今日はこれをやろうと思う」とお互い毎日筋トレやストレッチなどの動画を送りあっている。それも、長くて大体10分程度のもの。(筋力がないのでそれでもキツイ。。)やったらそれだけ報告する。今日も出来た自分たちをお互いに褒める。(結構大げさに、これ大事。)寝落ちしてしまうことや、体調が悪くてできない時もあるけれど、それでも、何とか一か月以上続いている。
そんなことでいい。
たとえ劇的な変化はなかったとしても、まだ何も形にはなっていなかったとしても、その影で自分なりに頑張ったこと、友人と一緒に褒めたり励まし合ったこと、そんなプロセスやその時の感情も、自分が自分に向き合った大切な軌跡で、幸せの一つのカタチなのかもしれない。
一年の終わり。
今年もドラマチックなことは何一つ起こらなかったけれど、ありふれた日々の中にささやかな幸せを感じながら、そして、何かが終わり、また始まる、そんな幸せの予感を感じながら、想う。
「みなさま、どうぞ良いお年をお迎えください。」
(2024年12月)
引用文献:谷川俊太郎『幸せについて』ナナログ社(2018)